今井一二三
表示
今井 一二三 | |
---|---|
生誕 |
1896年10月21日 日本・新潟県 |
死没 | 1950年11月10日(54歳没) |
所属組織 | 大日本帝国陸軍 |
軍歴 | 1918年 - 1945年 |
最終階級 | 陸軍少将 |
墓所 | 多磨霊園 |
今井 一二三(いまい かずふみ、1896年〈明治29年〉10月21日[1] - 1950年〈昭和25年〉11月10日[1])は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。
経歴・人物
[編集]新潟県出身[1][2]。1918年(大正7年)5月、陸軍士官学校第30期卒業[2][3]。同年12月に陸軍歩兵少尉に任官[4]。1927年(昭和2年)、陸軍大学校に入学し、1930年(昭和5年)に同校第42期卒業[2][3]。
1939年(昭和14年)3月に陸軍歩兵大佐に進み、同年4月に関東軍参謀として動員され、さらに同年12月に教育総監部庶務課長に任官する[2]。翌年の1940年(昭和15年)10月には台湾歩兵第1連隊長(北支那方面軍、第27師団)に補され、支那事変に出動[2][3]。
大東亜戦争に入り、第48師団(第14軍)に編成が変わり、フィリピン攻略で奮戦する[3]。
その後、1942年(昭和17年)11月に陸軍士官学校教官を経て、1943年(昭和18年)3月に陸軍少将に進級し、陸軍士官学校教授部長となり、同年5月より同校幹事を務める。 ついで、同年11月に陸軍科学学校附に転じ、翌年の1944年(昭和19年)10月より陸軍士官学校教授部長を兼職し、1945年(昭和20年)4月、教育総監部総務部長兼大本営陸軍参謀に補任される[1][2][3]。
同年8月7日、第11方面軍参謀長(第1総軍)に転じ、仙台で本土決戦に備える中、終戦を迎えた[2][3]。
1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた[5]。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 福川秀樹 編著『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。ISBN 4829502738。
- 外山操 編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。ISBN 4829500026。