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乾宣光

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
乾宜光
時代 戦国時代 - 江戸時代
生誕 天文19年(1550年
死没 慶長17年閏10月3日1612年11月25日[1]
別名 通称:七郎左衛門
墓所 高知県高知市潮江山
主君 赤松広英(斎村政広)山内一豊忠義
播磨龍野領但馬竹田領土佐河中山(高知)藩
氏族 乾氏
父母 乾和宜
兄弟 和信宜光和三
浅見新右衛門
樫井蔵之丞室(長女)、小上臈(次女)、
渡辺甚之丞室(三女)
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乾 宜光(いぬい よしみつ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。赤松氏、後に山内氏の家臣。山内一豊の影武者同装束六人衆の一人。

出自

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乾氏は、清和源氏土岐氏の支流で、土岐頼貞の四男・道謙の子孫、土岐久右衛門重頼が、美濃国池田郡東野村(現 岐阜県揖斐郡池田町東野)を本拠とし、土岐氏の居城である稲葉山城の北西(乾)の方角であったため名字とした[2]という。家紋は「丸に桔梗」。

生涯

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天文19年(1550年)、美濃池田郡東野村にて織田氏の家臣・乾和宜の二男として生まれる。

天正5年(1577年)、織田氏家臣・羽柴秀吉に従属していた播磨国龍野城主・赤松広英に仕える。秀吉に従い、同10年(1582年)の備中高松城の戦いや同12年(1584年)の小牧・長久手の戦いに従軍。天正13年(1585年)には、主家・赤松氏の但馬国移封に伴い但馬竹田城下へ移住する。

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いにおいて、主君・広英は石田三成方に与し、丹後国田辺城細川幽斎を攻めて開城させるが(田辺城の戦い)、関ヶ原の本戦は徳川方の勝利に終わる。窮地に立った広英は徳川方に寝返り、亀井茲矩らの軍勢と共に、鳥取城宮部長房を攻めるが、城下を焼き討ちした責を負って、同年10月28日(1600年12月3日)に広英は自刃し改易となった。

慶長6年(1601年)、宜光は土佐藩家老となっていた弟・和三を頼り土佐国に来住し、土佐藩主・山内一豊に仕えた。一豊から信任の厚い和三の兄ということで歓迎され、一豊の高知城築城の視察にあたり、身の安全のために仕立てた影武者・同装束六人衆(野中玄蕃・市川大炊・柏原長宅乾宜光・乾和三)の一人に選ばれている。

慶長17年閏10月3日(1612年11月25日)、高知城下で病死。享年63。墓は土佐土佐郡潮江山(現 高知県高知市潮江山)にある。

宜光には3人の娘がいたが男子に恵まれず、養子を仰せ付けられなかったので、宣光の死後、家禄は土佐藩に返納された。のち、弟・和三の次男、板坂永政の孫娘の婿である正房[3]乾七郎左衛門の名のみ襲名をしている。

系譜

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補注

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  1. ^ 『御侍中先祖書系圖牒』やその他系譜には「慶長16年閏10月3日」とあるが「閏10月」があるのは「慶長17年」のため「慶長17年」説を採る。
  2. ^ 『新編美濃志』には土岐道謙の後裔に乾内記という名が見られる。
  3. ^ 乾正房は、板垣流乾氏の分家第2代目。

参考文献

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