中島修二
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生年月日 | 1965年7月8日(59歳) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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出身地 | 山口県 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
大学 | 明治大学 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ラグビーユニオンでの経歴 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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中島 修二(なかしま しゅうじ、1965年7月8日 - )は、日本の元ラグビー選手。
プロフィール
[編集]来歴
[編集]大津高校を経て明治大学へと進む。1985年度の第22回全国大学ラグビーフットボール選手権大会では、慶應義塾大学と12-12で引き分けながらも、同チーム4年ぶりとなる優勝を経験[1]。その後、日本電気(後のNECグリーンロケッツ)に加入。
1989年5月28日に秩父宮ラグビー場で行われた、対スコットランド戦が、日本代表としての初キャップ試合。その試合で攻守に亘る活躍を見せ、対同チーム初勝利に貢献したが、後に当時監督だった宿澤広朗から、MVP級の活躍と賞賛を受けた[2]。その後も不動の7番として、1991年のワールドカップにおける対スコットランド戦まで常時出場機会を得た。
脚注
[編集]- ^ しかしその後の抽選の結果、日本ラグビーフットボール選手権大会には慶應が出場。そして慶應はトヨタ自動車を破って日本一の座に就いた。
- ^ 宿澤広朗 「言葉の力で革命を」 - Sports Graphic Number739号
参考文献
[編集]- 大友信彦(編)『ザ・ワールドラグビー』新潮社、p.40 ISBN 4104627011
- 『ラグビー日本代表激闘の記憶』ベースボール・マガジン社、p.69 ISBN 9784583620497