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中尾敏浩

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
中尾 敏浩
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 福岡県福岡市東区
生年月日 (1982-11-12) 1982年11月12日(42歳)
身長
体重
178 cm
76 kg
選手情報
投球・打席 右投左打
ポジション 外野手
プロ入り 2007年 大学生・社会人ドラフト5巡目
初出場 2009年8月8日
最終出場 2009年8月12日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

中尾 敏浩(なかお としひろ、1982年11月12日 - )は、福岡県福岡市東区出身の元プロ野球選手外野手)。右投左打。

経歴

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高校・大学時代

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福岡県福岡市出身。PL学園中学校・高等学校に進学すると1999年第71回選抜高等学校野球大会に出場し、準決勝で沖縄尚学高等学校に敗れる。2000年第82回全国高等学校野球選手権大会では3回戦で智辯学園和歌山高等学校武内晋一が所属)と対戦し、2打数1安打1打点3四球と活躍したが敗戦。当時は二塁手で、一学年下の今江敏晃と二遊間を組んでいた。

2001年青山学院大学硬式野球部へ進学すると外野手へ転向し、1年春から先発出場。2002年秋のリーグ戦では打率.350・0本塁打・8打点の活躍を見せ、自身初のベストナインを受賞。2003年春のリーグ戦では打率.389・0本塁打・5打点と活躍し、二期連続となるベストナインを受賞。秋は打率.244と不振だったが、初の本塁打を記録するなど、リーグ戦優勝に貢献している。2004年は副主将をつとめ、春のリーグ戦で打率.417・1本塁打・5打点の大活躍で首位打者と三度目のベストナインを受賞した。秋には左の好打者としてドラフト候補にも名前が上るが、指名は無かった。リーグ通算99試合出場、341打数97安打・打率.284・3本塁打・42打点。

JR東日本時代

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卒業後、JR東日本に入社。JR東日本硬式野球部に入部すると、同年から監督に就任した堀井哲也の指導のもと、1年目から外野のレギュラーの座をつかんだ。2006年第77回都市対抗野球大会では、小林太志や補強選手の森福允彦と共にチーム初のベスト4入りに貢献した。また第23回ハーレムベースボールウィーク日本代表第16回IBAFインターコンチネンタルカップ日本代表にも選ばれている。2007年第78回都市対抗野球大会ではチームの主軸として準優勝の原動力となった。同年の社会人ベストナインに選ばれる。

11月19日の大学生・社会人ドラフト会議において、東京ヤクルトスワローズから5巡目で指名された。12月2日に推定契約金5000万円、年俸1000万円で仮契約し、12月6日に入団が発表された。

プロ入り後

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2008年、春季キャンプ中に行われた阪神タイガースとの練習試合でソロホーマー含む3打数2安打1打点と鮮烈デビュー。しかし、オープン戦途中で右太もも肉離れのため戦線を離れ、リハビリ生活。その後、ファームで実戦復帰するも再び同じ箇所を故障。再復帰した際は感覚のズレに苦しむものの、シーズン後半から徐々に感覚を取り戻し、イースタン57試合に出場して打率.249、出塁率.360、6本塁打、22打点の成績をマーク。後半戦からは左翼手のレギュラーとして積極的に起用された。

2009年は、二軍で99試合に出場し打率.303、本塁打4、打点47を記録し、一軍でも2試合に出場した。2010年も二軍の中軸として85試合に出場したが前年よりも成績が落ち、打率.235、本塁打4、打点29であった。2011年も二軍で88試合に出場し打率.278を記録したが本塁打0に終わり、同年10月9日に戦力外通告を受け[1]、12月2日自由契約公示され現役を引退、親会社のヤクルト本社職員に転身した[2]

詳細情報

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年度別打撃成績

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O
P
S
2009 ヤクルト 2 2 2 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 .000 .000 .000 .000
通算:1年 2 2 2 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 .000 .000 .000 .000

記録

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背番号

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  • 56 (2008年 - 2011年)

脚注

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  1. ^ 来季の契約について”. 東京ヤクルトスワローズ (2011年10月9日). 2011年10月21日閲覧。
  2. ^ 【ヤクルト】中尾 敏浩外野手”. スポニチ Annex (2011年12月21日). 2011年12月21日閲覧。

関連項目

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外部リンク

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