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ノート:板倉勝殷

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勝殷の養子たちと娘たちによる家督相続の事情について

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勝殷の隠居から(3人目の)婿養子となった勝観(松平康載)による家督相続までの事情は、かなり複雑そうですが、よくわかりません。中には、勝殷の跡をすぐに勝観が継いだかのように記した書籍もあります。「Reichsarchiv ~世界帝王事典~」[1]は、参考文献に挙げるには差し障りがありそうなので載せていませんが、これも参照したところでは、家督は以下のように推移したことになります。

  • 板倉勝殷(1857年 - 1872年) 1869年まで安中藩主、1871まで安中藩知事
  • 板倉勝任(1872年 - 1873年) 勝殷の娘花子の最初の夫、1878年離籍
    • 板倉勝殷(1873年) ※わずか13日間にすぎず、これを当主復帰とみなして良いのか疑問あり
  • 板倉種子(1873年 - 1877年) 花子の姉?妹?
  • 板倉久知(1877年 - 1880年) 種子の夫
  • 板倉種子(1880年 - 1883年) 1884年に分家
  • 板倉花子(1883年 - 1886年)
  • 板倉勝観(1886年 - 1923年) 花子の2番目の夫、1886年のうちに入籍、家督相続、子爵叙爵

このあたりのことについて、何か詳しい文献はないものでしょうか?--エンタシス会話) 2020年8月26日 (水) 12:13 (UTC) (追記 エンタシス会話2020年8月26日 (水) 17:19 (UTC)[返信]

資料が見つかったので[2]加筆しましたが、今度は花子と種子の姉妹順がわからなくなりました。どちらが姉でどちらが妹なのでしょう?--エンタシス会話2020年8月26日 (水) 17:55 (UTC)[返信]

曾禰越後守さんによる加筆で事実関係の説明はつきましたので、本件は一応解決とします。もっとも、今度はこうなるに至った理由が気になるのですが。--エンタシス会話2021年7月7日 (水) 12:00 (UTC)[返信]