コンテンツにスキップ

スタテイラ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
スタテイラ
Στάτειρα
マケドニア王妃
在位 紀元前324年 - 紀元前323年

死去 紀元前323年
配偶者 アレクサンドロス3世
家名 アケメネス朝
父親 ペルシア王ダレイオス3世
母親 スタテイラ1世英語版
テンプレートを表示
スーサで執り行われた、マケドニア王国アレクサンドロス3世とスタテイラ、およびヘファイスティオンドリュペティスとの合同結婚式英語版

スタテイラ2世ギリシア語:Στάτειρα, ラテン文字表記:Stateira II, ? - 紀元前323年)は、アケメネス朝ペルシアの王女で、アルゲアス朝マケドニア王アレクサンドロス3世(大王)の妃のひとり。
アケメネス朝ペルシア最後の王ダレイオス3世と、娘と同名の王妃スタテイラ1世英語版の娘。妹にヘファイスティオンの妻となるドリュペティスがいる。祖母はシシュガンビス

生涯

[編集]

紀元前333年マケドニア軍とのイッソスの戦いで父王が敗走すると、遠征に同行していたスタテイラは母、祖母ら家族と共に陣中に取り残され、マケドニア軍に捕らえられた。
最初、太守マザイオスと婚約していたが、マザイオスは紀元前328年に死に、紀元前324年2月に合同結婚式英語版でアレクサンドロス3世と結婚した。この時アレクサンドロスは同時にアルタクセルクセス3世の娘パリュサティス2世英語版とも結婚している。しかし翌紀元前323年に大王が急逝すると、大王の最初の妃ロクサネによって、スタテイラは妹ドリュペティスともども殺害された[1]

2世紀の歴史家アッリアノスはスタテイラのことを「バルシネ」と呼んだが、ロドス島メムノンの妻バルシネとは別人である[2]

なお、スタテイラとアレクサンドロス3世との間にはAesopia(紀元前325年頃生誕)という娘がいたとされ[要出典]セレウコス1世の息子の一人アカエウス(アカイオス)と結婚。アンドロマコス(紀元前290年から紀元前225年頃まで存命)、ラオディケ1世(紀元前289年頃生誕)、アンティオキス(紀元前287年頃生誕)、アレクサンドロス(紀元前285年頃から紀元前243年頃)、ラオディケ2世の2男3女を儲けたという。

アンドロマコスの妹ラオディケ2世は甥(姉ラオディケ1世の子)セレウコス2世と結婚。セレウコス3世、アンティオコス3世、ラオディケの母となる。アンティオコス3世の直系はセレウコス朝滅亡まで続き、ポントス王ミトリダテス6世はアンティオコス3世の曾孫(3世の2人の子アンティオコス4世とラオディケが兄妹結婚し、その娘ラオディケがミトリダテス6世の母)である。

更にアンティオコス3世の姉妹ラオディケはバクトリア王エウクラティデス1世の母とされている(異説あり)。

アンドロマコスの妹ラオディケ1世はアンティオコス2世と結婚。セレウコス2世とラオディケの母となる。ラオディケはポントス王ミトリダテス2世と結婚、ミトリダテス3世とラオディケを儲ける。このラオディケとアンティオコス3世が結婚しているため、ポントス王家とセレウコス朝は三重に婚姻関係がある。ラオディケ1世の孫アンティオコス3世の娘クレオパトラ1世プトレマイオス5世に嫁いでおり、プトレマイオス朝にもその血が入り込んだ。それはコンマゲネ王家やクレオパトラ7世、ローマ帝国の皇室の1つユリウス=クラウディウス朝の一部の家系(小ユリアの家系)に繋がり、更にその血筋は有力なローマ貴族(アニキウス氏族のアニキア家やアレオビンドゥス家)や西ゴート王国の王族の一部を形成し、現在のスペイン王室も末裔といわれる。

アンドロマコスのもう一人の妹アンティオキスはアッタロスという人物と結婚。アッタロス朝のアッタロス1世の母となった。以降のアッタロス朝国王はアンティオキスの子孫で、アッタロス朝の滅亡後もその血筋はローマ貴族と結び付き、これもアニキア家に入り込み、末裔にローマ皇帝ペトロニウス・マクシムスオリブリオスがいる。さらに東ローマ帝国レオ朝ユスティニアヌス王朝ヘラクレイオス王朝と縁戚関係があり、アンティオキスの血筋もまた西ゴート王国に入り込んでいる。

アンドロマコスの弟アレクサンドロスの妻子は記録から確認が取れない。

アンドロマコス自身にはアカイオスという息子がおり、アカイオスは紀元前220年から7年間、対立王だったが、紀元前213年にアンティオコス3世によって処刑された。アカイオスの妻子についても記録から確認が取れない。

脚注

[編集]
  1. ^ プルタルコス、『対比列伝』、アレクサンドロス伝、 77.4
  2. ^ アリアノス、『アレクサンドロス大王東征記』. 7.4.4-8

外部リンク

[編集]