高積神社
高積神社(たかつみじんじゃ、正式名称:髙積神社)は、和歌山県和歌山市禰宜にある神社。式内社(名神大社または小2社)論社で、旧社格は村社。
髙積神社 | |
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神社が鎮座する高積山 | |
所在地 | 和歌山県和歌山市禰宜1557 |
位置 |
上ノ宮 北緯34度14分5.04秒 東経135度15分41.42秒 / 北緯34.2347333度 東経135.2615056度座標: 北緯34度14分5.04秒 東経135度15分41.42秒 / 北緯34.2347333度 東経135.2615056度 下ノ宮 北緯34度14分2.19秒 東経135度15分17.06秒 / 北緯34.2339417度 東経135.2547389度 |
主祭神 |
都麻都比売命 五十猛命 大屋津比売命 |
社格等 |
式内社(名神大)論社 式内社(小2社)論社 旧村社 |
創建 | 不詳 |
本殿の様式 | 流造 |
別名 | 高社・高宮・高御前 |
例祭 |
上ノ宮:4月15日 下ノ宮:10月10日 |
高積山(標高237メートル、通称:和佐山〈わさやま〉)の山頂に上ノ宮、山麓に下ノ宮が鎮座する。別称を「高社」「高宮」「高御前」「高三所明神」とも。
祭神
編集祭神は次の通り[1]。「高三所」の別称は主祭神3柱に因むが[2]、この3柱説は江戸時代に成立したと見られている[3]。
主祭神
配祀神
- 天照皇大神、須佐男命、八王子神
- 大山祇神、気津別神、応神天皇
- 神功皇后、比賣大神
歴史
編集概史
編集創建は不詳。当社には『延喜式』神名帳の紀伊国名草郡に「都麻都比売神社 名神大 月次新嘗」として載る名神大社、または「高積比古神社」「高積比売神社」として載る式内小社に比定する説がある[3]。
「都麻都比売神」としての史料の初見は『続日本紀』大宝2年(702年)の記事[原 1]において、伊太祁曽・大屋都比売・都麻都比売3社を分遷したという記事である[2]。『新抄格勅符抄』大同元年(806年)牒[原 2]では、紀伊国の「都麻頭比売神」に対して13戸が給されている[2]。関連して、承平年間(931年-938年)頃の『和名類聚抄』では紀伊国名草郡に「津麻(津摩)郷」が見えるが、これは「津麻神戸」を意味するとされる[2]。
神階としては、貞観元年(859年)に伊太祁曽神・大屋都比売神とともに「神都摩都比売神」として従四位下に昇った[2]。
延長5年(927年)成立の『延喜式』神名帳では紀伊国名草郡に「都麻都比売神社 名神大 月次新嘗」として、名神大社に列するとともに月次祭・新嘗祭で幣帛に預かった旨が記載されている[2]。『紀伊国神名帳』では天神として「従四位上 都摩都比売大神」と記載されるが、正一位に昇った伊太祁曽大神とは神階が開いた[2]。なお、同帳では関連して「従四位下 妻都比咩大神」の記載が見える。
日前神宮・國懸神宮と和佐荘との間で起こった水論(日前国懸神宮と高大明神の用水相論)での永享5年(1433年)の言上状では、高積神社が古くは日前宮の地にあったといい、のちに鎮座地を移って山東、のち和佐山へと遷座したとする伝を載せている[2]。この伝には『続日本紀』大宝2年(702年)の記事とも一致が見られることから、『紀伊続風土記』では高積神社が都麻都比売神社である可能性が高いとしている[2]。この水論では和佐荘側に当社が擁立されており、当社は日前宮に対抗出来るだけの権威を有していたとされる[2]。
上記の一方、当社には式内社「高積比古神社」「高積比売神社」を比定する説もある。この説を最初に述べたのは『紀伊国名所図会』であるが、同書では祭神3柱を高津比古神・高津比売神・気鎮神であるとしている[3]。
明治6年(1873年)に入り、近代社格制度では村社に列した[3]。明治43年(1910年)には気鎮神社をはじめとして和歌山市和佐地区内の10数社を合祀した[2]。
神階
編集脚注
編集原典:記載事項の一次史料を紹介。
出典
参考文献
編集- 中村貞史 著「高積比古神社・高積比売神社」、式内社研究会編 編『式内社調査報告 第23巻 南海道』皇學館大学出版部、1987年。
- 「高積神社」『日本歴史地名体系 31 和歌山県の地名』平凡社、1983年。ISBN 9784582490312。