鈴木大亮
日本の政治家、農商務官僚
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鈴木 大亮(すずき だいすけ、1842年6月26日(天保13年5月18日) - 1907年(明治40年)2月1日)は、日本の政治家、農商務官僚。貴族院議員、官選県知事、錦鶏間祗候、男爵。幼名・篤敬。
経歴
編集陸奥国遠田郡中埣村(現:美里町)で仙台藩士・鈴木雄三郎の長男として生まれる。文久3年(1863年)、江戸で江川塾において砲術を学び、黒田清隆と知り合う。戊辰戦争に従軍した。
明治4年(1871年)11月、黒田清隆の推薦で開拓使十二等出仕となる。以後、開拓少主典、同主典、同権大主典、同大主典、開拓権少書記官、同権大書記官などを歴任。1882年2月、開拓使が廃止され農商務省に移り大書記官に就任。以後、兼大蔵大書記官、北海道庁理事官、農商務省水産局長などを務めた。
1890年3月、秋田県知事に就任。1892年3月、石川県知事に転じた。1893年4月、逓信次官に就任。1895年10月、日清戦争の功により叙爵し男爵となる。1897年12月から鉄道局長を兼務し、1898年1月に逓信次官を辞した。同年同月17日、貴族院勅選議員に任じられ[1]死去するまで在任[2]。同年2月14日、錦鶏間祗候を仰せ付けられた[3]。
家族
編集- 二男・慶松(1872年生) - 山形県人・奥山吉治の一人娘・万寿子の婿養子となる。吉治は沼沢村の地主の子で、内村鑑三と交流のあった篤農家で一致教会(現・山形六日町教会)で受洗したキリスト教徒。子の奥山亮は、札幌第一中学校、真岡中学校教師 北海道史研究家。[4][5]
- 三男・成功(1875年生) - 1905年に華族相続人廃除が裁判により確定[6]
- 四男・脩治(1878年生) - 襲爵
- 娘・りゆう(1880年生) - 薩摩藩士・赤﨑宗行の子・赤﨑戸八郎の妻[7]。その長女・八恵は海軍少将東郷実の妻。
- 娘・みさを(1884年生) - 田中都吉の妻[8]
- 五男・友亮(1887年生)
- 娘・たか(1889年生) - 大澤銈三郞の妻[8]
栄典
編集- 位階
- 1890年(明治23年)11月1日 - 従四位[9]
- 1895年(明治28年)12月10日 - 正四位[10]
- 1898年(明治31年)4月30日 - 従三位[11]
- 1907年(明治40年)1月31日 - 正三位[12]
- 勲章等
- 1889年(明治22年)11月29日 - 大日本帝国憲法発布記念章[13]
- 1895年(明治28年)10月31日 - 男爵・勲二等瑞宝章[14]
- 1907年(明治40年)2月1日 - 旭日重光章[15]
- 外国勲章佩用允許
脚注
編集- ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、9頁。
- ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、16頁。
- ^ 『官報』第4383号、明治31年2月15日。
- ^ 『歴史教育の新地平』大浜徹也、同成社, 1997, p380
- ^ 奥山 亮徳富蘇峰記念館
- ^ 官報. 1905年02月08日
- ^ 鈴木大亮『人事興信録』初版 [明治36(1903)年4月]
- ^ a b 鈴木脩治『人事興信録』第8版 [昭和3(1928)年7月]
- ^ 『官報』第2207号「叙任及辞令」1890年11月6日。
- ^ 『官報』第3737号「叙任及辞令」1895年12月11日。
- ^ 『官報』第4448号「叙任及辞令」1898年5月2日。
- ^ 『官報』第7078号「叙任及辞令」1907年2月2日。
- ^ 『官報』第1932号「叙任及辞令」1889年12月5日。
- ^ 『官報』第3704号「叙任及辞令」1895年11月1日。
- ^ 『官報』第7077号「叙任及辞令」1907年2月4日。
- ^ 『官報』第1156号「叙任及辞令」1887年5月10日。
参考文献
編集- 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年。
- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』1990年。
- 歴代知事編纂会編『新編日本の歴代知事』歴代知事編纂会、1991年。
- 上田正昭他『日本人名大辞典』講談社、2001年。
公職 | ||
---|---|---|
先代 河津祐之 |
逓信次官 第4代:1893 - 1898 |
次代 田健治郎 |
日本の爵位 | ||
先代 叙爵 |
男爵 鈴木(大亮)家初代 1895年 - 1907年 |
次代 鈴木修治 |