牧野貞喜
牧野 貞喜(まきの さだはる)は、常陸笠間藩の第3代藩主。成貞系牧野家6代。
時代 | 江戸時代中期 - 後期 |
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生誕 | 宝暦8年8月6日(1758年9月7日) |
死没 | 文政5年10月17日(1822年11月30日) |
改名 | 幸之助(幼名)、貞喜 |
別名 |
春山(隠居後)、風詠堂金英(俳号)、 子燕、九渕、喬木園、唱谷桜 |
戒名 | 広道義穏寛信院 |
墓所 | 東京都墨田区千歳の要津寺 |
官位 |
従五位下、兵部少輔、備中守、日向守 越中守、贈従三位 |
幕府 | 江戸幕府 |
藩 | 常陸国笠間藩主 |
氏族 | 牧野氏 |
父母 | 父:牧野貞長、母:松平乗佑の次女 |
兄弟 | 貞喜、直三郎、幾五郎、西尾忠善、近藤用倫 |
妻 | 伊達村候の次女・寛 |
子 |
貞為、貞幹、松平忠宝、布施重正(四男)、 藤三郎、庸五郎、喜善(七男)、 娘(山野辺義質室)、娘(松平正通室)、 娘(西郷員福室)、娘(前田長義室)、 娘(織田信恭室) |
特記 事項 | 9男11女 |
生涯
編集宝暦8年(1758年)8月6日、第2代藩主・牧野貞長の長男として生まれる。宝暦14年(1764年)1月11日に貞喜と名乗る。安永3年(1774年)に従五位下・兵部少輔に叙位・任官する。寛政4年(1792年)3月21日、父の隠居で家督を継ぎ、3月22日に備中守に遷任する。寛政5年(1793年)3月7日に日向守に遷任する。12月16日には奏者番に任じられた。
この頃の笠間藩牧野家では、父の時代からの藩財政悪化により、重税を行ない、さらに天明の大飢饉による被害などで農村は荒廃し、人口も減少していた。このため、貞喜は藩政再建のために藩政改革に乗り出す(寛政改革)。良水という僧侶を登用して、家臣の俸禄削減や倹約令の徹底、年貢収納の強化、北陸地方の農民移住の奨励などを行なったのである。これらは一定の成果を挙げたが、北陸の農民を移住させたことが加賀藩の怒りを買い、そのため文化5年(1808年)に良水は自害に追い込まれた。これにより、改革は一時的に停滞する。
文化6年(1809年)、貞喜は川崎頼母を登用して新たな藩政改革に乗り出した(化政改革)。農村支配の強化や次男・三男の分地・分家取立てによる人口増加、窮民への資金融資、出生や多子を持つ親への褒賞、勧婚などを行なったのである。さらに農業以外にも分業を奨励し、囲米なども行なった。また藩校・時習館を創設して優秀な人材を積極的に登用し、藩士の意見を広く取り立てるために上書の制を採用した。これらは笠間藩の再建に大きく効果を挙げている。
文化14年(1817年)10月21日、足病を理由に家督を次男の貞幹に譲って隠居する。以後も藩政の実権を握って改革を推進しながら、俳諧の世界に入って江戸可因に師事し、「菊畠」などの作品を残している。文政5年(1822年)10月17日に死去、享年65。
人物
編集系譜
編集父母
正室
- 寛 - 伊達村候の娘
側室
- 間宮氏
子女