山野辺義質
江戸時代後期の水戸藩家老。従五位下、主水正。山野辺家7代
山野辺 義質(やまのべ よしもと)は、江戸時代後期の水戸藩家老。6代藩主徳川治保の甥。
時代 | 江戸時代後期 |
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生誕 | 天明元年6月26日(1781年8月15日) |
死没 | 天保11年12月3日(1840年12月26日) |
改名 | 松平友三郎(幼名)→山野辺義質→常徳斎(号) |
別名 | 兵庫(仮名) |
諡号 | 僖子 |
官位 | 従五位下、主水正 |
主君 | 徳川治保→治紀→斉脩→斉昭 |
藩 | 常陸水戸藩家老 |
氏族 | 水戸松平氏→山野辺氏 |
父母 | 父:松平保受、養父:山野辺義風 |
妻 | 正室:比佐(牧野貞喜の娘) |
子 | 義観、直(徳川斉昭側室) |
生涯
編集天明元年(1781年)、松平保受(もりつぐ、5代藩主徳川宗翰の七男)の子・友三郎として江戸に生まれる。父・保受は他家に養子入りすることなく天明5年(1785年)に没している。
寛政3年(1791年)、代々家老の山野辺義風が嗣子なく病没したため、藩主徳川治保は、11歳の友三郎を山野辺氏の養子とした。家督相続とともに1万石を与えられる。寛政9年(1797年)に家老となり、従五位下、主水正を称する。家老在任は40年におよび、飢饉や藩の財政悪化、異国船来航など、国内・藩内の情勢の変化が著しかった時期であった。
文政12年(1829年)、8代藩主斉脩が嗣子なく病重篤になるにおよび継嗣問題が起きるが、このとき義質の長男・義観が敬三郎(後の斉昭)擁立派の頭首となったため、斉昭時代に重用されることとなった。義質の娘・直は斉昭の側室となり、義質の孫の義正には斉昭の三女・祝姫が嫁ぎ、重縁の間柄となった。
天保7年(1836年)、隠居して剃髪し常徳斎と号し、隠居料50人扶持を与えられた。天保11年(1840年)、60歳にて助川海防城内に死去した。斉昭より僖子の諡号が与えられた。
墓所
編集参考資料
編集- 鈴木彰『幕末の日立―助川海防城の全貌』常陸書房、1974年
脚注
編集- ^ 日立市報 2012年 8月 20日号No.1497 日立市