源潔姫

母は当麻治田麻呂の娘(女嬬、子に源全姫(812-882.2.16、尚侍、正二位))。藤原良房の正妻。正三位、贈正一位。史料上確実な臣下の妻となった初めての皇女

源潔姫(みなもと の きよひめ)は、嵯峨天皇皇女。母は当麻治田麻呂女。藤原良房正妻清和天皇の外祖母。贈正一位

 
源 潔姫
時代 平安時代初期 - 前期
生誕 弘仁元年(810年
死没 斉衡3年6月25日856年7月30日
墓所 愛宕墓(山城国愛宕郡、現・京都府京都市左京区南部の吉田山)
官位 正三位正一位
氏族 嵯峨源氏
父母 父:嵯峨天皇、母:当麻治田麻呂
兄弟 仁子内親王業良親王業子内親王有智子内親王仁明天皇正子内親王、貞姫、潔姫、全姫、、善姫、、基良親王、基子内親王、秀良親王、秀子内親王、忠良親王、俊子内親王、芳子内親王繁子内親王、宗子内親王、純子内親王、斉子内親王
藤原良房
明子文徳天皇女御)
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臣籍降下後の結婚であるが、史料上確実な「臣下の妻となった初めての皇女」である[1]。良房との間に生まれたのは、文徳天皇女御となった明子ひとりであり、他に妻を迎えず後嗣のなかった夫・良房は基経猶子とした。

経歴

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弘仁5年(814年)、同母妹全姫を含めた7人の兄弟姉妹とともに源朝臣を賜った。これは賜姓源氏の初めである。兄・源信戸主となる。

弘仁14年(823年)頃、おそらく14歳で20歳の藤原良房と結婚する[2][3]。潔姫は琵琶を得意とし、嵯峨天皇に愛された娘だったという。天長6年(829年)、娘明子を生む。

承和8年(841年)、無位から正四位下に叙せられる。仁寿元年(851年)11月、右大臣であった良房が正二位に昇叙した際、その「家夫人」であるとして潔姫も従三位に昇叙した。女官でなく、(大臣の)妻であることをもって高位に叙された初例である[4]。仁寿3年(853年)3月、正三位に叙せられる。 斉衡3年(856年薨去

脚注

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  1. ^ の規定により皇女(内親王)は三世(天皇の孫)までにしか嫁げないことになっていた。
  2. ^ 文徳天皇実録』斉衡三年六月丙申条潔姫の卒伝に「太政大臣正一位藤原良房弱冠之時、天皇悦其風操超倫、殊勅嫁之」とあり、良房が「弱冠」つまり数え20歳の年に結婚したと思われる。
  3. ^ 栗原弘「藤原良房と源潔姫の結婚の意義について」比較家族史研究 21号、p3-38、2006年
  4. ^ 服藤早苗・西野悠紀子『歴史のなかの皇女たち』小学館、2002年、p91