恩納岳
恩納岳(おんなだけ[1])は、沖縄県国頭郡恩納村と金武町にまたがる、標高363メートルの山。
恩納岳 | |
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金武町の伊芸公民館から望む恩納岳 | |
標高 | 363 m |
所在地 |
日本 沖縄県国頭郡恩納村・金武町 |
位置 | 北緯26度28分46秒 東経127度52分29秒 / 北緯26.47944度 東経127.87472度座標: 北緯26度28分46秒 東経127度52分29秒 / 北緯26.47944度 東経127.87472度 |
山系 | 国頭山地 |
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プロジェクト 山 |
沖縄本島のほぼ中央部に位置する。沖縄の名山として知られ、琉球王国時代から文学の題材とされてきた。沖縄戦終結後に米軍基地として接収され、一般人の立ち入りは制限されている。
地勢
編集沖縄本島のほぼ中央部に位置し[2]、北の沖縄県国頭郡恩納村瀬良垣(せらかき)[3]、南の同郡金武町伊芸(いげい)[4]との境界をなす[1]。標高は363メートルで[5]、両町村の最高峰である[6]。
国頭山地に属するが、沖縄本島を横に走る断層により南北両側が分断され、独立したような山容である[1]。全体的に谷は少なく、起伏が緩やかであるが、山頂付近では急な斜面となり、標高約150メートルから下部に海岸段丘が広がる[7]。北海岸に面する段丘の端部に、第四紀更新世の琉球石灰岩からなる高さ約10メートルの海食崖が形成され、「万座毛」と呼ばれている[7]。北麓に南北に伸びる断層があり、それに沿うように小さな河川が北へ流れ、また南麓側の金武町には小規模の谷底低地が見受けられる[7]。一帯の地質は、中生代から古第三紀にかけての砂岩・粘板岩で構成される国頭層群である[7]。
自然
編集植生は、イタジイやリュウキュウマツ、ススキを主体とする[2]。イタジイは南西麓と北麓の一部のみ自生しているが、これらの多くは伐採後の萌芽によるもので、リュウキュウマツは丘陵部に広く生育している[8]。2009年(平成21年)から2012年(平成24年)にかけて、恩納村で行われた植物調査で恩納岳は軍用地であったことから調査は不可能であったが、頂上部に沖縄本島の脊梁山地をなす与那覇岳や伊湯岳山頂部に多く分布している着生植物が自生していると思われる[9]。
爬虫類のオンナダケヤモリは、沖縄本島から初めて記録されたのが恩納岳であるために名づけられた[10]。沖縄本島のほかに、日本では奄美大島や石垣島、西表島にも見られ、台湾や東南アジア、太平洋・インド洋の島々にも分布している[11]。両生類のイボイモリは、恩納村における最古の報告が恩納岳で、当村での生息は戦前から知られていた[12]。
歴史
編集恩納岳は方言で「ウンナダキ」といい、恩納村の中心集落である「恩納」からの由来とされる[1]。『中山伝信録』には別名に「佐渡山(さとやま)」と記され、東恩納寛惇の『南島風土記』によれば、新しく恩納間切を創設し、総地頭に任命された佐渡山親方安治(恩納安治)[13]から誤って伝わったものとされる[14]。
古くから、本部半島の嘉津宇岳と共に沖縄の名山として知られていた[1]。首里からも遠望することができ、当地の文化人は「山」といえば最初に恩納岳を想起したほどで、琉球における文学のモチーフとなっている[7]。尚敬王時代に、冊封副使の徐葆光と共に琉球王国を訪れた王文治は、「数峯天遠」と記した横書きの扁額を残し、恩納岳の山々を讃えている[15][16]。蔡温の「恩納嶽」と題した漢詩があり[17]、また琉球古典音楽の一曲『恩納節』の歌詞や[18]、組踊の演目『姉妹敵討』の台詞に恩納岳が取り入れられている[16]。
恩納出身の「なべ」という女性が残した琉歌があり、恩納岳に阻まれた金武に住む恋人を偲んだものといわれる[19]。その歌を以下に紹介する。
1945年(昭和20年)の沖縄戦では、沖縄本島南部からの住民を合わせて約2万人が恩納岳周辺の山中に避難したが、アメリカ軍の捕虜となり、その多くは石川収容所へと送られた[21]。恩納岳に約400人の第4遊撃隊(第2護郷隊)が構えていたが、アメリカ軍の第6海兵師団の攻撃により73人が戦死、恩納岳は占領され、遊撃隊は6月2日に名護の久志岳に向けて撤退した[22]。
戦後、恩納岳周辺はアメリカ軍により接収され、1957年(昭和32年)に設定された「キャンプ・ハンセン」の区域内にあり、一般人の立ち入りは制限されている[15][23]。また、恩納岳一帯は「キャンプ・ハンセン」の中でも、「ハンセン着弾区域」に指定され、実弾を用いて射撃訓練が行われており[24]、山林火災が頻繁に発生していた[16]。東麓全域は、沖縄県道104号線を封鎖して射撃演習が行われていたが[25]、1997年(平成9年)3月に事実上終了した[26]。
2020年(令和2年)3月、アメリカ軍は「キャンプ・ハンセン」内で行った調査で、沖縄戦当時の遺構が恩納岳で発見された[27]。頂上付近に防空壕、装備品を設置したとされる平坦地などが発見され、第2護郷隊や他の日本軍の陣地跡とみられる[28]。
ギャラリー
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恩納村のアカティーダバンタより
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万座毛より
出典
編集- ^ a b c d e 「恩納岳」、『角川日本地名大辞典』(1986年)、p.249
- ^ 「瀬良垣」、『角川日本地名大辞典』(1986年)、p.426
- ^ 「伊芸」、『角川日本地名大辞典』(1986年)、p.137
- ^ “日本の主な山岳標高”. 国土地理院. 2018年11月12日閲覧。
- ^ 仲田(2009年)、pp.167, 169
- ^ a b c d e 「恩納岳」、『日本歴史地名大系』(2002年)、p.422上段
- ^ 日越國昭ほか「恩納村の植物」、『恩納村誌 第1巻 自然編』(2014年)、p.112
- ^ 千木良芳範「恩納村の両生爬虫類」、『恩納村誌 第1巻 自然編』(2014年)、p.468
- ^ 田中聡「オンナダケヤモリ」、『沖縄大百科事典 上巻』(1983年)、p.638
- ^ 千木良芳範「恩納村の両生爬虫類」、『恩納村誌 第1巻 自然編』(2014年)、p.459
- ^ 高良倉吉「恩納間切」、『沖縄大百科事典 上巻』(1983年)、p.639
- ^ 「恩納嶽」、東恩納(1980年)、p.647
- ^ a b 「恩納岳」、『日本歴史地名大系』(2002年)、p.422中段
- ^ a b c 仲松弥秀「恩納岳」、『沖縄大百科事典 上巻』(1983年)、p.637
- ^ 上里(1990年)、pp.93 - 94
- ^ 大山一雄「恩納節」、『沖縄大百科事典 上巻』(1983年)、pp.638 - 639
- ^ 「恩納岳」、仲松編(1980年)、p.66
- ^ 清水編(1994年)、p.311
- ^ 仲松弥秀「沿革 沖縄戦と戦後の復興」、『角川日本地名大辞典』(1986年)、p.856
- ^ 大城将保「恩納岳の戦闘」、『沖縄大百科事典 上巻』(1983年)、p.638
- ^ 「キャンプ・ハンセン」、『沖縄の米軍基地 平成25年3月』(2013年)、p.199
- ^ 「キャンプ・ハンセン」、『沖縄の米軍基地 平成25年3月』(2013年)、p.198
- ^ 仲松弥秀「沿革 県道越え実弾射撃」、『角川日本地名大辞典』(1986年)、p.856
- ^ 「県道104号線越え実弾砲撃演習(金武町)の廃止」、『沖縄の米軍基地 平成25年3月』(2013年)、p.27
- ^ 「恩納岳で陣地跡発見」『琉球新報』第40022号2020年7月1日、日刊、30面。
- ^ 「恩納岳頂上付近 護郷隊陣地跡か」『沖縄タイムス』第25632号2020年7月1日、日刊、30面。
参考文献
編集- 上里賢一『琉球漢詩選』ひるぎ社〈おきなわ文庫 49〉、1990年。全国書誌番号:91007126
- 沖縄県知事公室基地対策課編『沖縄の米軍基地 平成25年3月』沖縄県知事公室基地対策課、2013年。全国書誌番号:22336428
- 沖縄大百科事典刊行事務局編『沖縄大百科事典』沖縄タイムス社、1983年。全国書誌番号:84009086
- 恩納村誌編さん委員会編『恩納村誌 第1巻 自然編』恩納村役場、2014年。全国書誌番号:22441720
- 角川日本地名大辞典編纂委員会編『角川日本地名大辞典 47.沖縄県』角川書店、1986年。ISBN 4-04-001470-7。
- 清水彰 編『琉歌大成 本文校異編』沖縄タイムス社、1994年。全国書誌番号:94025297
- 仲田邦彦『沖縄県の地理』編集工房 東洋企画、2009年。ISBN 978-4938984-68-7。
- 仲松弥秀 編『恩納村誌』恩納村役場、1980年。全国書誌番号:85017875
- 東恩納寛惇 著、琉球新報社 編『東恩納寛惇全集 7』第一書房、1993年。全国書誌番号:95025936
- 平凡社地方資料センター編『日本歴史地名大系第四八巻 沖縄県の地名』平凡社、2002年。ISBN 4-582-49048-4。
関連項目
編集外部リンク
編集- ウィキメディア・コモンズには、恩納岳に関するカテゴリがあります。