台北市の道路(タイペイ/たいほくしのどうろ)では、中華民国台湾台北市の道路について説明する。

中山北路三段(中山区
凱達格蘭大道中正区
基隆路中国語版一段(信義区

市街地の主要道路網

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高速公路・快速公路

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国道1号(中山高速公路)
 
環河快速道路中国語版

台湾省道

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中山南路台9線)の道路名標識

市道

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道路名

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台北市道路牌・門牌編釘弁法」第3条の規定に基づき、幅15メートル以上の道路は「路」、幅8メートル以上15メートル未満の道路は「街」、幅8メートル未満または全長500メートル未満の道路は「巷」と呼ばれる。また、幅25メートル以上の道路の一部は「大道」と呼ばれる[1]

1968年(民国57年)の市域拡大以前から台北市内だった地域の道路は、ほとんどが中国大陸の地名、歴史人物、古文の用語にちなんで命名されている。1968年に台北市に編入された地域である北投士林内湖南港文山の道路名は、旧市域での命名ルールに準拠していない[2]

方角の境界

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台北市街地の道路名の東西は羅斯福路・中山南路・中山北路を基準とし、これ以西は「○○西路」、以東は「○○東路」と呼ばれる。南北は忠孝西路・忠孝東路一~二段・八徳路[注 1]を基準とし、これ以南は「○○南路」、以北は「○○北路」と呼ばれる。ただし、基隆路や市民大道などの例外も一部存在する。

ローマ字表記

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金門街の道路名標識
上の標識は郵政式(KinMen)、下の標識は漢語拼音(JinMen)が用いられている。

当初、台北市の道路のローマ字表記には、外国の固有名詞に由来する名称(羅斯福路など)を除いてはウェード式が使用されていた。1998年(民国87年)、台北市長陳水扁は市内の道路名のローマ字表記を通用拼音に変更させた。ただし、基隆路(Keelung Rd.)や金門街(Kinmen St.)のように既に国際的に広く認知されている表記を採用しているもの、艋舺大道中国語版(Bangka Blvd.)のように原住民の言語のローマ字表記を採用しているもの、西蔵路(Tibet Rd.)や市民大道(Civic Blvd.)などのように英語表記を採用しているものも存在する。同年に陳水扁の後任として馬英九が市長に就任すると、道路名や駅名のローマ字表記に漢語拼音を使用することが決定された。このように表記方法が複数回変更されているため、現在の台北市では標識に複数のローマ字表記が混在する状態となっている。

道路名の沿革

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日本統治時代台北市のほとんどの道路には名前が付けられておらず、清朝時代の道路名に由来する「○○街」という小字が存在するに留まっていた。1926年昭和2年)に市中心部の大字・小字は廃止され、新たにが設置された。これにより、例えば表町を通る大通りは「表町通」と言うように、市内の主要道路に「○○町通」という俗称が誕生していった。また、台湾神社(後の台湾神宮)への参道として整備された道路(現:中山北路)は「勅使街道」と命名された[4]

台湾光復後の1945年(民国34年)11月17日台湾省行政長官公署は「台湾省各県市街道名称改正弁法」を公布し、台湾省における日本風な地名・道路名を排除し、「中華民族の精神を発揚するもの」「三民主義を宣伝するもの」「国家の偉人を記念するもの」「地域の地理・習慣に適合するもの」のいずれかに変更するよう指示した[2][5]。これを受けて台北市政府中国語版1946年(民国35年)6月に市内の道路名の改正を実施し、清朝時代の多くの道路名が復活した[2][6]

1947年(民国36年)1月、台湾省行政長官公署は再び台北市内の道路名の大規模改正を行った。今回の改正では、台北市の市域を中国大陸に見立て、中山南北路と中正東西路の交点(現:台湾公路原点中国語版)を基準点として北方の道路には大陸北部の地名(長春街・北平街など)、南方の道路には大陸南部の地名(広州街・福州街など)、東方の道路には大陸東部の地名(徐州路・済南街など)、西方の道路には大陸西部の地名(成都街・迪化街など)が割り当てられた[2][8][9][10]

1947年以降、台北市全体の道路名が再び大きく変更されたことはなかったが、都市開発の進展に伴って新たな道路が続々と開通した。これらの新しい道路の命名方法は、引き続き中国大陸の地名を用いたもの(西蔵路中国語版敦化南路中国語版敦化北路中国語版など)、記念的なもの(辛亥路中国語版光復南路中国語版・光復北路など)、道路の所在地の地名から取ったもの(大安路など)など、様々であった。

再開発などの理由による改称や道路自体の廃止のために、道路名が消滅したという例も存在する。

台北市内の街路一覧

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以下では、台北市内の街路を名称の由来ごとに列挙する。

中国大陸の地名

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備考の「首都」「省政府所在地」などの情報は、1947年時点での物である。

院轄市

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東北地区

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塞北地区

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華北地区

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華中地区

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華南地区

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西部地区

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人名

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歴史上の事物

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古文・思想訓示

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縁起の良い言葉

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道路の所在地名

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沿道の施設

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脚注

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注釈

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  1. ^ 1970年(民国59年)以前、現在の忠孝西路・忠孝東路一~二段・八徳路に相当する区間は「中正路」と称していた[2][3]

出典

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  1. ^ 臺北市道路命名及門牌編釘自治條例” (中国語). 臺北市法規查詢系統. 臺北市政府. 2024年12月23日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年12月23日閲覧。
  2. ^ a b c d e f g 為什麼天龍人要住在「中國地圖」裡?台北有條被遺忘的「中正路」” (中国語). 関鍵評論網 (2017年12月1日). 2024年12月23日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年12月23日閲覧。
  3. ^ a b c 你家也在中正路? 台灣路名都與「他」有關” (中国語). Yahoo!新聞. 民視新聞 (2017年12月6日). 2024年12月23日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年12月23日閲覧。
  4. ^ 勅使街道(今中山北路)” (中国語). 臺灣記憶. 國家圖書館. 2024年12月23日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年12月23日閲覧。
  5. ^ 台湾ミニ百科(2020-08-07)台北市、中国大陸地名の道路が多い訳”. 台湾国際放送 (2020年8月7日). 2024年12月23日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年12月23日閲覧。
  6. ^ 臺北市政府改正街道名稱一覽表” (中国語). 臺灣省行政長官公署公報. 臺灣省行政長官公署 (1946年6月28日). 2024年12月23日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年12月23日閲覧。
  7. ^ “除去日本色彩省垣改正街路名稱” (中国語). 民報. (1946年1月1日). オリジナルの2024年12月23日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20241223101109/https://www.thenewslens.com/artichttps://das.nlpi.edu.tw/handle/676z9le/84037 
  8. ^ 臺北市新舊路名對照表” (中国語). 臺灣省行政長官公署公報. 臺灣省行政長官公署 (1947年1月15日). 2024年12月23日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年12月23日閲覧。
  9. ^ 臺北市新舊路名對照表” (中国語). 臺灣省行政長官公署公報. 臺灣省行政長官公署 (1947年1月16日). 2024年12月23日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年12月23日閲覧。
  10. ^ 臺北市新舊路名對照表” (中国語). 臺灣省行政長官公署公報. 臺灣省行政長官公署 (1947年1月16日). 2024年12月23日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年12月23日閲覧。
  11. ^ a b c 台北市百年歷史地圖中一千二百分之一地形圖和台北市圖(1958)”. 2021年12月19日時点のオリジナルよりアーカイブ。2013年8月21日閲覧。
  12. ^ 聖艾摩爾之火的網誌” (中国語). 2012年4月29日時点のオリジナルよりアーカイブ。2012年5月22日閲覧。
  13. ^ 從臺北地圖上消失的「漳州街」”. 地圖與遙測影像數位典藏計畫 (2020年4月16日). 2024年12月24日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年12月24日閲覧。
  14. ^ 洪健倫 (2019年8月6日). “台湾のあるじは誰なのか――総統府と総統府前広場の変遷”. TAIWAN PLUS. 2024年5月4日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年12月24日閲覧。
  15. ^ 「克難街」更名「國興路」 回顧台北街道今昔樣貌” (中国語). 報時光 (2024年4月18日). 2024年12月24日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年12月24日閲覧。

関連項目

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