三木鉄道
三木鉄道株式会社(みきてつどう)は、兵庫県で旧国鉄の特定地方交通線であった鉄道路線の三木線を、2008年3月まで運営していた三木市・兵庫県などが出資の第三セクター方式の鉄道会社である。本社は兵庫県三木市福井二丁目12番43号に置いていた。三木線廃止後、解散した。
種類 | 株式会社 |
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略称 | 三木鉄 |
本社所在地 |
日本 〒673-0433 兵庫県三木市福井二丁目12番43号 |
設立 | 1984年10月18日 |
業種 | 陸運業 |
事業内容 | 旅客鉄道事業 他 |
代表者 | 代表取締役社長 薮本吉秀(三木市長) |
資本金 | 2億5000万円 |
決算期 | 3月31日 |
所有者 | 三木鉄道 |
主要株主 |
三木市 51.66% 兵庫県 14.33% 加古川市 5.00% 神姫バス 5.00% 三井住友銀行 4.80% 他(2006年3月31日時点) |
特記事項:2008年4月1日解散。2010年11月30日清算終了。 |
歴史
編集第1次特定地方交通線に指定された国鉄三木線を運営するため、1984年10月18日に三木鉄道株式会社が設立され、1985年4月1日に国鉄から三木線を継承して営業を開始した。三木線は、2002年に芝山鉄道が開業するまで、広義の第三セクター鉄道の中では、営業距離が日本で最も短い鉄道であった。
ところが、三木市から神戸市内へ向かう旅客は神戸電鉄粟生線を利用し、三木市西側の加古川線に接続している三木線は旅客の主要な移動方向に合致しておらず、さらに、沿線に目立った集客施設も無いために、第三セクター転換後も乗客の減少が続き、慢性的な赤字に陥っていた。第三セクター転換時に国鉄から受給した転換交付金で赤字を穴埋めしていたものの、転換交付金は1996年に底を突き、以後は三木市の予算で赤字補填をしていた。しかし効果的な収支改善策も全く取れないまま、2006年には営業係数が313.4に達した。社長の加古房夫・三木市長は「市の歴史的遺産である」として引き続き路線を存続させる意向を表明し、経営改善のため、約800 m離れている三木鉄道の三木駅と神戸電鉄三木駅を連絡し、利用客の増加を図ることを構想した[注釈 1]。その方法として、この当時JR北海道が開発中であった線路と道路の両方を走行可能なデュアル・モード・ビークル (DMV) の導入を、検討事項の一つに挙げた[1]。しかし経営支援を行ってきた三木市の財政状況が悪く、2006年1月に行われた市長選挙において財政問題が争点とされ、市の財政再建のため「三木鉄道の廃止」を公約の一つに掲げた薮本吉秀が加古房夫を大差で破って新市長に当選し、社長に就任した。その後9月から10月にかけて行われた市民アンケートでも廃止賛成が70パーセントに対して、存続が11パーセントの結果が出た[注釈 2]。また外部監査の結果でも経営の継続は困難であり、今後20年間の存続に必要な支援額が20億円に達するとの試算が11月29日に出された。これらを受けて、対策協議会が最終会合で「廃止してバスで代替すべき」との結論を確認した。オブザーバーとして参加した兵庫県や加古川市は12月21日に「結論は、やむを得ない。」とコメントした。なお、2006年度には5400万円の経常赤字を出していた。
2007年3月1日の市議会および4月26日の三木鉄道の取締役会で、三木線全線の廃止を正式に決定した。7月23日に市長が廃止届けを提出し、2008年4月1日に全線が廃止された[注釈 3]。 運行最終日には多くの人々が詰め掛けた[2]。
年表
編集三木線の歴史については「三木鉄道三木線」を参照。
- 1984年(昭和59年)10月18日 - 三木鉄道株式会社が設立。
- 1985年(昭和60年)4月1日 - 国鉄から承継し三木線が開業。
- 2007年(平成19年)7月23日 - 三木市市長の薮本吉秀が、三木線を翌年4月1日を以っての廃止を表明。
- 2008年(平成20年)4月1日 - 三木線が廃止。会社を解散し、清算会社に移行。
- 2010年(平成22年)11月30日 - 最後の株主総会を開催。清算業務を結了[4]。
路線
編集経路は、兵庫県道20号加古川三田線の西端部とほぼ重なる。
車両
編集- ミキ180形
- 転換時に導入された、富士重工業製のLE-Car IIシリーズの二軸車で、101, 102の2両が在籍した。北条鉄道のフラワ1985形と側面窓以外は同型の車両で、フラワ1985形の観光バスタイプに対し、本形式は路線バスタイプのアルミサッシの上段固定下段上昇窓であった。ミキ300形に代替され、102が1999年に、101が2002年に廃車にされた。廃車体のうち1両は兵庫県加西市満久町にある台湾料理店「鴻福楼」(ホウフクロウ)に引き取られ、2018年現在、同店の駐車場内で物置きとして使用されている。
- ミキ300形
- 富士重工業製のLE-DCシリーズのボギー車で、103, 104, 105の3両が在籍した。車両増備およびミキ180形の置換え用として、1998年に103、1999年に104、2002年に105を導入した。三木市では三木鉄道廃止後、2両を競売に付し、2008年に105を樽見鉄道が、104を北条鉄道が落札した。保存前提で保管されていた103は、2009年6月にひたちなか海浜鉄道へ譲渡された[5][6]。
- 保線用モーターカー
- 三木鉄道全線の保線を担っているモーターカーで、1両が在籍していた。
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ミキ300形
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ミキ180形(2001年)
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保線車両のモーターカー(2001年)
清算業務
編集廃線後も清算業務のため存続していた三木鉄道であったが、2012年11月30日に最後の株主総会が行われ、残余資産の分配が行われた。三木市には47200平方メートル(評価額1900万円)、加古川市には6100平方メートル(同200万円)の土地が配分された。土地を含む残余資産は、三木市に5300万円、加古川市に500万円、兵庫県に1500万円などが分配された[4]。
廃線跡
編集三木鉄道跡には4.8kmの遊歩道「別所ゆめ街道」が整備されている[7]。うち別所ふるさと交流館(三木市別所町下石野1)-県道三木宍粟線高木末広バイパス(三木市別所町高木)間の4kmはサイクリングロードとして整備されている[7]。サイクリングロードは「はりまの里スーパーロングライドコース」の一部である[7]。
脚注
編集注釈
編集- ^ 単に800 mとは言っても、三木鉄道は加古川の支流の一つである美嚢川の南に路線を持っていたのに対して、神戸電鉄の三木駅は美嚢川の北なので、ここを鉄道で接続するためには鉄道橋などを架ける必要がある。なお、神戸電鉄の隣の駅の三木上の丸駅ならば美嚢川の南だが、より距離が離れている。
- ^ 堀内重人『鉄道・路線廃止と代替バス』(東京堂出版、2010年4月、ISBN 9784490206968)は、「三木鉄道の廃止が前提であるため、そのような結果が出るようにアンケートは沿線から離れた地域で実施された」と主張している。
- ^ 鉄道事業法では廃止予定日1年前までに届け出ることが定められているため、2007年7月23日に提出された廃止届けも廃止予定日は2008年8月1日としていたものの、関係自治体などへの意見聴取で反対が無ければ廃止予定日を繰り上げても良いとの例外規定があり、この規定を活用して、三木鉄道の廃止日は2008年4月1日に繰り上げられた。
- 「三木鉄道株式会社の鉄道事業(三木線)の廃止について」国土交通省近畿運輸局 2007年7月23日
- 「三木鉄道株式会社の鉄道事業の廃止予定日の繰上げについて」国土交通省近畿運輸局 2007年10月31日
出典
編集- ^ “三木のあした〜市長選を前に〜 4.鉄路の行方 止まらぬ乗客減/再生なるか三木鉄道”. 神戸新聞 (兵庫県神戸市: 神戸新聞社). (2006年1月6日). オリジナルの2007年6月16日時点におけるアーカイブ。 2013年5月29日閲覧。
- ^ “三木鉄道の乗客数29%増 廃止前の3月に集中”. 神戸新聞 (兵庫県神戸市: 神戸新聞社). (2008年4月12日). オリジナルの2008年4月13日時点におけるアーカイブ。 2013年5月29日閲覧。
- ^ 神戸新聞(2008年4月1日付)・毎日新聞(2008年4月1日付)・朝日新聞(2008年4月1日付)
- ^ a b “三木鉄道、最後の株主総会 預金など財産分配へ”. 神戸新聞 (兵庫県神戸市: 神戸新聞社). (2010年12月1日). オリジナルの2010年12月6日時点におけるアーカイブ。 2013年5月29日閲覧。
- ^ 旧三木鉄道の最後の車両、今日「再就職」 - asahi.com (2009年6月11日付)
- ^ 旧三木鉄道、茨城で変わらず元気! 海も見ました 神戸新聞NEXT 2017年7月29日
- ^ a b c “三木鉄道跡にサイクリングロード開通 歩行者と楽しめる新名所「低速で譲り合って」”. 神戸新聞. 2022年4月4日閲覧。
関連項目
編集- 三木鉄道記念公園 - 三木鉄道の三木駅周辺を整備した公園。さらに、三木鉄道の廃線跡の東側の約5 kmが遊歩道として整備された。