20250117

 典型性とは、そこで人が匿名になるものです。多くの人がそれを頼って主体化するような鋳型。
(千葉雅也『センスの哲学』より「デモーニッシュな反復」)


  • きのうからであるかおとついからであるかはっきりしないが、両方のふくらはぎが痛い。筋肉痛のような痛みであるのだが、そもそもここ数日はろくに出歩いていないので筋肉痛になりようがない。足首をのばしたり持ちあげたりしても痛いし、ふつうに歩くだけでも痛い。神経損傷が原因かもしれないと素人診断している首まわりの窒息感と原因はおなじかもしれない。ネットで調べてみたところ、椎間板ヘルニアが原因でふくらはぎに痛みが出ることもあるとあり、それでいえばまさにおとついだったか、なにかの拍子に腰をひねって傷めたばかりだった。母が明日整形外科にいく必要があるというので、こちらもついでに診てもらうことに決めたが、首まわりにしてもふくらはぎにしてもたぶん完治まで長引くタイプのアレである気がしてならない。
  • ピザを食い、きのうづけの記事の続きを書いて投稿し、1年前と10年前の記事を読み返した。以下は以下は2023å¹´1月15日づけの記事より。はじめて読んだときも思ったが、これは小説における語り(手)の問題とアナロジカルに接続可能。

 現実には、このように不連続的かつ多重な樹々は存在しえない。複数の時間にまたがる枝の「運動」が不連続的かつ多重に記録されていると考えることもできない(そのような説明は、画面全体を拘束する周期構造を捉えることができない)。後期セザンヌの風景画は、世界の記録ではない。絵画は世界に対して閉鎖されている。にもかかわらずセザンヌが、これこそが「感覚」なのだ、ここに「感覚」が「実現」されているのだと言うとき、そこでは次のことが意味されていると考えることができる。デコードされるべきは描かれた諸々の対象の形姿や運動ではない。デコードされなければならないのは、むしろ私たちのこの身体である。
 感覚し行為する私たちの身体は、進化と個体の歴史において、世界を特定の仕方でエンコードするよう形成されている。ガヴィングが論じたのは、絵画が、世界を別の仕方で(奥行きをスペクトルの秩序で)エンコードする可能性を開くということだった。そこでは暗号的画面から、描かれた世界を複号することがいまだ問題となっていた。だが真に問題なのは、画面をデコードできるか否かにかかわらず、絵画が、それを経験しうる新たな身体を発生させるということだ。描かれた元の光景がどうであったかはわからず、しかしこの多重化した光景を十全たる世界として経験する新たな身体が発生する。つまりこの身体にはアナグラムのように、他なる身体が潜在しており、絵画がそれを実現する。私たちの身体こそが暗号なのだ。その身体はバラバラに砕かれ、デコードされ、新たな形式へと変換されなければならない。絵画の多重周期構造は、私たちの身体を破砕的デコードのプロセスへと巻き込んでいる。
 後期セザンヌの風景画を「見る」とは、見ることのただ中で視覚が砕かれていく経験である。私の視覚は、気がついたときにはすでに激しく震動するリズムに巻き込まれている。後期セザンヌの絵画は、強力な巻き込みの力を持つ。その力は、絵具の物質的な官能と、画面の多重周期構造に由来している。私は、その多重周期構造から、距離を取ることができない。そこではいわば、定位の任意性が欠けているからだ。単一の周期構造(縞)は定位も脱定位も容易である。だが複数の周期構造の重ねあわせ(モワレ)はそうではない。一つのリズムに乗ろうとした途端に、別の周期構造が現れる。あるリズムから足を洗おうとした途端に、別のリズムに呑み込まれる。定位の不確定性が画面を震動させる。震動は、それを意識したときにはすでに私を呑み込んでおり、絵具の物質的官能に吸い寄せられる私の身体を内側から激しく揺さぶっている。デコードが進行する。
 それは、絵画に目を向けるたびつねにすでに始まっているために「始まり」がなく、絵画から身を引き剥がすことによってしか中断されえないために「終わり」がない震動である。その震動は、行為から行為へ、「始まり」から「終わり」へと流れていく有機的な生の時間を吸収し、消滅させる。セザンヌの絵画を見るとき、そこでは過ぎ去るものとしての時間の感覚が消滅する。始まりも終わりもないその震動の場を、私たちは、絵画的「永遠」と呼ぶことができるだろう。「われわれの芸術は、自然が持続しているということの戦慄を人に与えるべきなのだが、それは自然のあらゆる変化の要素や外見を駆使してなのだ。永遠なものとして味わわせてくれなければならない」。世界から閉鎖されたはずの絵画が、その始まりも終わりもない震動の永続性において、世界の永続性に並行する。画面に目を走らせるたびに組み替えられ、更新される永遠が、私の他なる身体を貫いて震動する。絵画の中で左を向く。すなわち新しき永遠だ……! 絵画の中で右を向く。すなわち新しき永遠だ……!
(平倉圭『かたちは思考する 芸術制作の分析』より「第1章 多重周期構造」 p.49-51)

  • 以下は2020å¹´1月15日づけの記事より。

 いまさらあらためて引くまでもない、いたるところで目にしてきたためにすっかりあたまに入っている内容であるのだが、しかし「シニフィアンのネットワークにはひとつの中心となるシニフィアンがあり、それが他のすべてのシニフィアンのネットワークの総体を固定している」とは、より具体性の水準にひきさげていえば、どういうことになるのだろうとあらためて疑問に思った。これについてはのちほどコンタルド・カリガリス/小出浩之+西尾彰秦訳『妄想はなぜ必要か ラカン派の精神病臨床』を読んでいるときにもいろいろ考えてみたので、ちょっと書き出してみることにする。以下の内容はラカン派の考えをいちおうベースにしつつも極度に魔改造したもの。
 〈父の名〉という特権的なシニフィアンについてよくいわれる喩えがパズルにおける空白のマス目。つまり、それがあることによってほかの項を移動させたり並べ替えたりすることのできる、不在の中心みたいなもの。これは指し示すものと指し示されるものとが一対一対応する「記号」(これをASD的な言語と言い換えることもできる)に対して、そうではない「(一般的な)言語(使用法)」を可能にするものだといえる。つまり、特異性から一般性への飛躍を可能にする機能が〈父の名〉である、と。これは言語の水準の話。
 同じことを別の水準で考えると、〈父の名〉というものを役割のモデルのようなものとして理解することができる。役割というのは当然、特異的な実存を一般性にたばねたものだ。ゆえに〈父の名〉が排除されているということは、役割のモデルを持たないということであり(一般的な「父親像」「先輩像」「上司像」をもたない)、実人生でそのような役割を課せられる場面(ライフイベント)に接したとき、役割の引き受けが不可能であることが判明し、それを契機に発病することになる。
 精神病者は〈父の名〉の欠如を、周囲の人物を模倣することで誤魔化す(いわゆる「かのようなパーソナリティ」)。「(一般的な)言語(使用法)」にしても「役割」にしても、そのようなその場しのぎの模倣によって取り繕われているために、周囲の目には法の(欠如というよりは)欠損のように映じる可能性がある(精神病の鑑別診断でたしか、具体的にどこがおかしいかいうのはむずかしいがやりとりにずれを感じるみたいな、診察時に医師がおぼえる違和感を重視するというものがあったはず)。発症後はそのようなごまかしが不可能になる。法(文法/役割/論理学的基礎)が狂いをきたして支離滅裂になるが、支離滅裂になったそれを自力で(〈父の名〉にたよらず)まとめあげるのが、〈父の名〉の代替物であり埋め合わせであるものとしての妄想。
 これに対して自閉症者は妄想をすることがない。自閉症は〈父の名〉が欠如したその位置にとどまっている。周囲の人物を模倣することもなければ、〈父の名〉の欠如を代理物で埋め合わせしようともしない。
 理解を容易にするため、あえて時系列っぽく書くと、まずデフォルトとして自閉症的主体がある。主体は特異的な出来事(傷)の到来を受けながらそれらをパターン化しカテゴライズしていく。そのパターン化とカテゴライズを一挙におしすすめるのが「他者」「歴史」「言語」「法」の別名である〈父の名〉。そしてそのような〈父の名〉のインストールに成功した主体が神経症者。神経症者の症状とは、そのインストールによって必然的にもたらされる種々の不具合のこと。一方、インストールに失敗したのが精神病者。精神病者は、そもそものパターン化とカテゴライズを放棄した自閉症者とはことなり、神経症者の身振りや思考を模倣したり、〈父の名〉のオルタナティヴとしての妄想を構成したりする。精神病者の症状とは、コンタルド・カリガリスによれば、〈父の名〉のインストールに成功していた場合に生じていた神経症の症状が現実界に回帰したものとして理解できる。

  • 『abさんご』(黒田夏子)の続きを読む。収録作の「毬」「タミエの花」「虹」をまず読んだが、「毬」で描写される、弱気でいじらしい子どものようすを読んでいるだけで、ああ、とぐっとくる。ここには本物の子どもがいるな、と。つくりものではない、どこまでもリアルな子どもの、微妙に狂った計算、かたよった認知のありように触れると、それだけで全肯定したくなる。

 冬うちは、お手玉の全盛だった。タミエはオテノセ、オツカミ、オハサミ位までは稀には行ったが、次のオコツリで始まる長い一続きの段階から先は、もう歌もよくはわからなくて混沌として、地平線の彼方という感じであった。お馬の乗り換えだとか乗り越しだとか、橋をどうするとか、その旅路の遥けさは幻の国といった趣である。そしてそんな技巧は一度もやってみたことがなく、順もわからない始末のタミエとしては、万一そんなところまですらすらと捗ってしまって、お馬のなんとかなどというのをやる羽目になり、どうやっていいのかまるっきりわからないようなことになってタミエが一度もそこまで行ったことがないのが露見してしまうのは困るから、どうしたってずっと初めの方でつっかえて、同じことばかりしているしかないのだ。
(「毬」 八)

 たとえばパイナツプルチヨコレイトでも、タミエは必らず負けた。じゃんけんで紙[パー]で勝てばパイナツプル、鋏[チョキ]で勝てばチヨコレイト、石[グー]で勝てばグリコの、その字数だけ歩き、沢山の距離を進んだ者が勝である。道で、あらかじめ決めておいた所まで着いたら又逆に戻って来る、という風にするのだが、それでも日が落ちるともう互いの出した手の形が読めないほど離れてしまって、大声で自分の出したのがなんであるか叫び合うことがある。するとタミエは、勝っているのにわざと違うのを云ったりする。得にならない嘘というものが考え及ばないたちの仲間は、もちろんタミエが他の者の出した手を知った後で自分の負け手を報告する場合の真偽については疑ってみたことがないのであるが、それでもなにがなし又例のうろんさが匂って、実際はタミエがその惨敗よりも更に輪を掛けて負けるべきだったのだという気持になるのである。
(「毬」 八〜九)

 ところが、きょう、さっきから、毬はなんとなく弾み方を弱めて来ていた。初めのうちそれは、柔らかすぎる砂地で突く時のような手応えだったから、タミエは場所を変えてみたり、力を入れて突いたりしてごまかしていたのだが、毬はだんだん変な音を立て始め、妙に軟かな手触りになり出した。もしタミエが真相を見究めることの好きなたちであったなら、強く押しながら表面をもう片方の掌で軽く覆ってみることによって、既にかすかながら空気の洩れる状態になっている箇所を発見したことだろう。しかしタミエはそういうたちでは全然ないので、その不吉な軟かさが絶望的にまでならないうちに、ひとまず突くのを中止してしまった。毬が弾まなくなるなどというあり得べからざる成行きは無視するのが一番賢明だという風にタミエは思う。さっきから毬の手応えがおかしくなって来たなどということは「なかったこと」にしてしまえばいい、そしてすっかりそんな兆しを忘れ尽してから、さて何事もなかったとして突いてみれば、きっと毬は元通りよく弾むだろう。タミエの掌のくぼみに、きっちりと硬く撥ね返って来るだろう。
(「毬」 九〜一〇)

  • ところで、「毬」のタミエは、こわれてしまった毬の代わりとなる新品の毬を商店で万引きする。そうして逃げた先の民家の庭先で、柑橘類がなっているのを見つける。するとその民家の主人が庭先に出てきて、タミエのポケットが鞠でふくらんでいるのをその柑橘類の果実と誤解し、「又上げるからね、黙って取るんじゃないね」と言って、ひとつ手渡す。タミエもまた「たくさん貰ってどうもありがとう」と、誤解をそのままにして礼を言う。その後、文章は以下のように続く。

 私は本当は、タミエがその強い酸味と芳香とに感動してしまって、もう一度取って返し、男の立ち去ったあとの果樹の根本に、真白な毬を——タミエにとってほんとうに欲しかった大切なものの方を——こっそり置いて去るという風に書きたかったのだが、タミエはそんなことをしなかったのだから仕方がない。

  • さすがにこの唐突な、語り手と一致した作者の登場には、ちょっと面食らった。「毬」はたった12ページのみじかい作品で、上に引いた箇所以外に「私」がこのように直接的に顔を出すくだりもない。じゃあどうしてこんなふうにおもいきった書き方をしたのだろうと考えたのだが、たぶん、黒田夏子はこの「毬」を書くにあたってかなりはやい段階から、というかひょっとしたら書き出す前から、「男の立ち去ったあとの果樹の根本に、真白な毬を——タミエにとってほんとうに欲しかった大切なものの方を——こっそり置いて去る」というオチを決めていたのではないか。そしてそのオチにむけて書き進めるつもりだったのだが、そこにいたるまえに書いた(こちらが上に複数引いた)タミエという人間をあらわすいくつかのエピソードが、それは本来オチにむけての助走のようなものとして想定されていたのだろうが、そのオチにむかうことをうらぎったのではないか。あらかじめ俯瞰されたこしらえものの構成に、事前に決め打ちされたつくりものの性格に、実際の人生とおなじように一歩ずつ淡々と積み重ねてひきずっていくしかない記述の運動が、いざそのオチを前にしたときに反旗をひるがえしたのではないか、作者の思惑をふりはらって自立したのではないか。そしてそのときの感動を作品内に封じこめるために、断念されたオチをわざわざこうして、それによってもたらされる構成上の瑕疵すら無視して、一種のエクスキューズとして挿入するにいたったのではないか。
  • 種類はまったく異なるが、「虹」でもやはり最後の最後で、それまでのトーンをぶち壊しにしてしまいかねない記述——タミエが幼少期に弟の命を奪ってしまっていたこと——が挿入される。見たくて見たくてたまらなかった虹を、偶然ではあるもののついに目にするにいたった瞬間、「そして突然、タミエは思い出した」という文に続き、おなじ場所でおなじように虹が架かっていた幼い日、事故でも過失でもなく殺したいと思って弟を川に突き落として殺したかつての記憶がよみがえるのだ。そして「虹を、もう一度忘れてしまえるものならば。」と結ばれてこの作品は終わるのだが、この展開は正直どうなんだろうという違和感をおぼえないといったら嘘になる(乗代雄介の『旅する練習』に対する戸惑いとちょっと似ている)。とはいえ、予兆のいっさいなかったところに、それまでのトーンをぶちこわすような秘密が宣告されるにいたるという構造自体は、カフカの最良のエッセンスが凝縮されている傑作「判決」とおなじであり、そういう意味でカフカ的なものであると読むこともできる。ただ、その読み筋を確保したところで、「虹を、もう一度忘れてしまえるものならば。」という最後の一行が邪魔をする。正直、これは完全に余計な一行だと思う。この一行のせいで、この作品の焦点が凝り固まり、わかりやすい暗喩の体系に力ずくで押しこまれてしまっている印象を受けるのだ。
  • 昼過ぎ、母の従姉妹であるSとKちゃんがやってきた。これを書いているいま、母に確認してはじめて知ったのだが、Kちゃんのほうが年上らしい。そしてSの本名は(…)であるとのこと。KちゃんがMで買ったパンをもってきてくれたのでさっそく食った。三人の女(ムージル)たちはさっそく父の手術や入院についてあれこれ話した。Kもこんな状態やのに大変やったなあというので、死んだら死んだでKとそろって焼き場もってくことできるしそのほうが安上がりでええやろといつもの軽口を叩いた。のちほど母からKちゃんが自己破産していることをきいた。元旦那のHちゃん(かつて中華料理店の店長だった)があちこちでこさえた借金の連帯保証人になっていた関係らしい。Kちゃんはこちらが赤子だったころ、県営住宅に住んでいた時代の話であるが、よく子守りをしてくれたという。母が兄の世話をしているあいだ、乳母車にのせたこちらを連れて近所をたくさん散歩してくれたというのだが、散歩中のこちらはほとんどまったくしゃべらずおとなしくしていたらしい。あまりに静かなので寝ているのかなと思って乳母車を止めて顔をのぞくと、とめるな、動かせ、と喃語で訴えるのが常だった。こちらはいまでも乗りものに乗るが好きであるというか、車でもバスでも電車でも飛行機でも、乗りこんでわりとすぐにリラックスし、そのままはやばやとまどろんでしまう傾向があるのだが、案外この乳母車が原体験だったりするのかもしれない。
  • 『abさんご』の表題作も読んだ。あれ? これ『S&T』じゃない? と思った。幼少期の生活の断片的な細部を息の長い文体で描写していくのかとおもいきやそこに割合頻繁なペースで価値判断がまぎれこむ点にしても、人物を名前や人称代名詞ではなく「行為する者」にその都度因数分解して記述しなおす点にしても、あるいは「行為する者」ですらなくその「者」の身体の一部あるいは行為そのものを動作の受け手ないしは送り手として主語の位置に立てる点にしても、意外なほど『S&T』との共通点を感じさせるものだったのだ(しかるがゆえにその失敗その弱みにも目がいく)。
  • だからというわけでもないが、いや、やっぱりだからなのかもしれないが、ひさしぶりに「C&K」を更新した。断章三つ。すべて『S&T』に収録されているものをもうすこし簡潔に書きなおしたもの。
  • Kさんは今日、「村委会」で家を建てなおす件について話してきたという。やはり家を建てなおすことにしたようだ。いつ崩れてもおかしくないような、こちらもちょっとだけ写真で見せてもらったことがあるが、本当に百年前のほったて小屋のような家に住んでいる現状(土間は土で、居間には囲炉裏)、不便なことことのうえないし、特に冬は寒くて仕方がないので、新築の完成については、やはりKさん自身かなり楽しみにしているようだった。それからこちらのふくらはぎが痛むという件について、カスタマーセンターで朝から晩まで週六で働いていた当時、Kさんもやっぱりおなじ症状に悩まされたという話があった。座りっぱなしのせいで血流が悪くなるのが原因っぽい。Kさんは血栓防止のためのスパッツのようなものをわざわざ淘宝で買って装着していたとのこと。

20250116

 個性とは、何かを反復してしまうことではないでしょうか。
(千葉雅也『センスの哲学』より「作品とは「問題」の変形である」)


  • 9時過ぎ起床。Aから帰国したのかとLINEがとどく。メシでも行こうというので、父親の状況を伝える。5%くらいの確率で死ぬらしいからそんときは香典10万くらい包んでもってこいよと軽口を叩くと、グラブルのガチャで6%のキャラをひくのに80連外したことがあるからだいじょうぶやという返答。笑うわ。Mちゃん経由でRからもこちらの帰国をたずねる連絡があった模様。父親のもろもろが落ち着いたら三人でメシでも行くか。
  • 昼ごろから父が二度目の手術という話だったので、病院内に出入り可能な母と弟のふたりだけが出発。こちらはKの介護がてら留守番。冷食のパスタを食し、きのうづけの記事の続きを書いて投稿し、1年前と10年前の記事を読んだ。それから『茄子の輝き』(滝口悠生)の続き。途中、母から着信があり、父の手術前に救急で運ばれてきた人物がおり、そちらの手術が優先されるかたちになったので、帰宅が何時になるかわからないとあった。それで、たしか18時ごろだったと思うが、弟がスーパーで買ったどんぶりだけ持って一度帰宅した。手術室にむかう父を見送ったタイミングでひとり中座し、三人分のメシを買いに出かけたのだ。弟はじぶんと母親の分のどんぶりを持ってふたたび病院へむかった。
  • ふたりが最終的に帰宅したのは20時をまわっていたのではなかったか。それまでこちらはずっとひとりでKの介護を担当していた。たぶん五回はおむつを交換したと思う。圧迫排尿で小便をうながした、肛門を刺激してうんこも出した、ぬるま湯も満足いくまで飲ませた——それにもかかわらず寝つかずに息をあえがせていることがときどきあり、これじゃあまるで半年前とおなじだ、原因不明のあえぎは前回こちらが出国してほどなくなくなったという話だったのに。それでいえばしかし、半年前は半年前で、こちらが帰国したのをきっかけにその時点で半年ほど途絶えていたなんらかのふるまいをKが突如として復活させたことがあったのだった。こちらが帰国するたびに半年分若返るという寸法なのかもしれない。原因不明のあえぎだけではない。こちらが帰国して以降、Kは若いころそうだったように、みずからの不満を吠えて訴えるようにもなっている。
  • 父の手術はひとまず成功。しかし今後一週間はなにごとかが発生するかもしれないリスクが高い。心臓の一部が壊死しているため、退院後は体力の低下におそらく悩まされるだろうとのこと。食事療法と運動療法と薬物療法のいずれかを今後一生続ける必要があるが、食事療法と運動療法は続かないひとが多いので、薬物療法のほうがいいだろうと主治医はすすめたという。退院後はかかりつけ医のもとに定期的に通って経過観察してもらう必要もある。それから塩分をひかえるために、カップ麺は今後食べてはいけないともいわれたというのだが、これは父にとってなかなかの地獄だろう。
  • 父は母に対して職場に連絡をしてくれたかと確認した際、仕事をやめるとはこちらから絶対に伝えるなと釘を刺したらしい。父は先日七十歳になったばかりであり、今月いっぱいで二度目の定年退職(?)、仮に仕事を続けるとしても今後は一日四時間のパート勤務というかたちになるという話であり、往復で二時間かかる職場に四時間だけ働きにいくのはどうなのかという疑問もあるし稼ぎも少なくなるしで、もともと転職ふくめてもろもろ考えていたらしい。というか本人は来月からトラック運転手に転職する気でいたらしく、いや七十歳からトラック運転手はいくらなんでもめちゃくちゃすぎるやろとこれにはさすがに母も弟も反対したというのだが、病気になったいまもやはりどこかしらで働く気まんまんでおり、場合によってはいまの会社と交渉できるのではないかと考えているらしい(しかるがゆえに、こちら側から仕事を辞めるとは決して伝えるなと母に言ったのだ)。魚を捌くスキルだけはS級であることだし、スーパーの鮮魚部なり居酒屋の厨房なり、そういうところでバイトでもなんでもいいから雇ってもらえるのであれば(休日じっとしていることができない父の性格的にも、家計的にも)御の字であるが、トラック運転手はさすがにやめてほしい。
  • 今日もまた一歩も外に出歩かず終わりそうだったので、金をおろすのも兼ねてまた弟の運転でセブンイレブンに行った(そしてそのついでに三人分の飲みものなりコンビニスイーツなりを買うのだ)。車内ではTikTok難民となった米国人らが小红书に殺到しているというきのうおとといあたりから大陸で話題になっている件について弟に話した。TikTok禁止政策を受けたアメリカの若者たちがいったいなぜなのかわからないが小红书に殺到したものの、小红书はTikTokと抖音のように国際版(壁の外側)と国内版(壁の内側)にわかれていない、しかるがゆえに大陸の事情をろくに知らないアメリカ人らがごくごくナチュラルに、TikTok禁止政策というのは言論の自由に対する侵害であると訴えるメッセージや動画を投稿して即banみたいな、あるいは週休二日制かつ残業のないアメリカ社会に対してどうすればそんなことが可能なのかと素朴にたずねる人民に対して労働組合を組んで必要ならばデモだのストだのすればいいと素朴にアンサーしたところでやっぱり即banみたいな、そういう現象が多発しているみたいで、さすがにこの流れはちょっと笑ってしまった。検閲もまったく追いついていないらしく、小红书を運営している会社が英語のできる検閲スタッフを急遽募集しだしているみたいな情報もあった。
  • 夜、TからLINE。Nちゃんがランダムに弾いたピアノの鍵盤の音をGが「ド・ミ・ソ」「ファ・ラ・ド」などすべて言い当てている動画。絶対音感があるらしい。英才教育なんてろくにしていない、ピアノ教室すらほんの半年前に通いはじめたばかりで、うちにいるときだってろくに練習しておらずYouTubeで素人が小遣い稼ぎにこしらえたキッズ用のクソ動画(走りまわるプラレールのようすをクソみたいなカメラワークで追い、クソみたいなモンタージュをほどこし、クソみたいなナレーションを重ねている、日本の子どもらの感性を壊滅させるために海外から投稿されたこれは逆情操教育動画であるという陰謀論の源にすらなりかねないほどひどい代物)、それにもかかわらずあっさりと絶対音感を習得してしまったわけで、いや三歳かそこらの時点でかえるの歌をほとんどまったく音程を外さずに歌えたあの時点でふつうではないと思っていたが、たいしたもんだ。

20250115

 実際の目的達成をするのではない余暇のすごし方として、二つの傾向が考えられます。
 ひとつは、目的達成の楽しさをシミュレーションする方法で、架空の目的に向けて何段階ものハードルを設定し、そのサスペンスを楽しむというもの。それが遊びやゲームであり、これはあくまでも目的志向なので、おそらく本能的になじみやすく、芸術よりもポピュラーだと言えるでしょう。やはり人は動物であって、目的達成が生きることのメインだからです。
 それに対して、目的達成より途中の宙づり状態がメインになると、より芸術的になってくる。ただ、それは不安と背中合わせなので、目的性がよりはっきりした遊びやゲームに比べてポピュラリティが低くなります。
 人間の生活は、目的志向と、宙づりを味わう不安混じりの享楽という二つをミックスすることでできている。人によってはそのバランスがどちらかに片寄っている場合があるでしょう。
 ゲームにせよ、芸術的な宙づりにせよ、人間にとって楽しさの本質というのは、ただ安心して落ち着いている状態ではないわけです。楽しいということは、どこかに「問題」があるということです。漠然と問題があって、興奮性が高まっていることが、不快なのに楽しい。楽しさのなかには、そのように「否定性」が含まれている。普通は、否定的なものは避けようとするので、このことは意識に上ってきません。しかし、芸術あるいはエンターテイメントを考えるときに、これは非常に本質的なことです。
(千葉雅也『センスの哲学』より「目的志向と芸術的宙づり」)


  • 10時起床。母が父の財布のなかから一枚の写真を見つける。父が若いころに(おそらくは写真屋で)撮影した白黒の証明写真。なぜかアルファベットの筆記体でサインまで入っている。なんでこんなもんじぶんの財布に入れとんねんと笑う。母曰く、父は若いころに郷ひろみに似ていると言われていたのが自慢だったらしい。さっそくTとMちゃんにくだんの写真をLINEで送った。インフルエンザのMちゃんは薬のおかげで熱がひいたという。今後Mちゃんの母君まで感染することがあったら子どもらの世話をだれもできなくなるので、その場合は買い出しだけお願いするとあった。
  • 母と弟が買いものに出かけたので、そのあいだはKの介護を兼ねて留守番。『氷柱の声』(くどうれいん)を読み、きのうづけの記事を書いて投稿し、1年前と10年前の記事を読み返す。以下、『氷柱の声』(くどうれいん)より。

忘れてしまったことはもう同じ温度で抱きしめることは出来ない。忘れたことにあとから意味がついたとき、それがドラマチックになってしまうことが、おれは怖い。
(54)

「ほんと、生きてるなあって思うんすよ。いろんな人が僕の人生のこと勝手に感動したり、感動してる人に怒る人が居たり、忙しいすよ。僕はただ暮らしているだけなのに。確かに僕の人生は感動物語として消費されてしまっているかもしれない。でも、考えてみると、ある日突然家族も家も全部なくしてしまった僕は、もうどっちみち美しい物語を歩むほかないんじゃないかって思ったりするんすよ。何を目指しても、敗れても、どうあがいても感動物語にしかならないんですもん。そういう僕が何を言っても『きれいごと』に聞こえてしまうかもしれないですけど、僕は何度だって言えますよ。どれだけ陳腐だって言いますよ。『人は何かを失わないと気が付けない』『家族がいるってそれだけで幸せだ』『一日一日に感謝して生きろ』って」
(96-97)

「でも、やっぱわたしこういう日のために医者になっていればよかったのかなあ、ってめちゃくちゃ思っちゃった! 日本語教師くびになった日の夜、なんか眠れなくて。くびになっちゃったなあ、とか、彼が近くにいなくてさみしいな、とかぼんやり天井を眺めながら考えてたの。そしたらどんどん暗いきもちになってきて、これからどうやってお金稼ごうとか、エッセンシャルワーカーの人たちの苦労のこととか頭に浮かんできて。(こういうときに、わたしは何もすることができない)って思った。そしたら、うわあってなっちゃって。わたしあのとき避難所で、絶対にそういう大人にならないぞって決めたのに泣きそうになって。でもねいっちゃん、わたしそのとき初めてわかったの。(こういうときに、わたしは何もすることができない)って、思いはしたんだけど、声に出して言おうと思ったら言えないの。多分、本当はその先の言葉があるんだろうって思ってたくさん考えた。そうして最後に自分の口から出てきた独り言が『できることがあっていいなあ』だったの。世の中がめちゃくちゃになったときに、『今すること』がある人のことがうらやましいんだよね。わたしは日本語を教えることができるけど、今それをする必要はない。世界じゅうのいろんなことが『それどころじゃない』ってなったとき、夢中で打ち込めることがある人がうらやましくなるんだね。もちろん、大変だよ、大変な忙しさ、大変なリスク、そうなんだけど、自分のことに必死だからそんな風に思っちゃう。(…)」
(103)

 それで、と言うとトーミは画面の右下のほうに腕を伸ばし、何かを取り出した。
「これを見せたくて」
「うん」
「福島帰ってきたら、広報が届いたんだ。これ、いっちゃん見えるかな」
 カメラに向かってずいと差し出された薄い冊子の表紙には、ぷっくりとした緑色の文字で「広報ふくしま」と書いてあり、その下には写真。博物館のような大きなガラスケースに、大きな黒い壁らしきものが展示してある。
「わかる? これ、学校の黒板なんだけどね」
「黒板か」
「やっぱり見えにくいかあ。写真撮って送るね」
 カシ、音がして、すぐに写真が送られてくる。その黒板には「3‐B最高!」と真ん中に大きく書かれてあり、周りに寄せ書きのように様々な言葉が並んでいた。
「これってもしかして、卒業のときの黒板?」
「そう。わたしが中学生の時の、わたしのクラスの、卒業式の黒板。新しくできた被災の伝承館に飾られることになったんだって。隣の3-Aの方が、絵を描くのが得意な子がいたから桜吹雪とかすごい力作で。でも3-Aのほうにはがれきの撤去のボランティアの人たちが書き残していった『あきらめないで』とか『絆』とか『がんばっぺ福島』とか『希望をもって』っていう寄せ書きが上書きされてるんだよね。たまたま3-Bは粗大ごみの置き場になったから、黒板をそのまんまで残すことができた。わたし、この広報でそれを知ったとき、なんかちょっとだけ腑に落ちたんだよね」
「腑に落ちた?」
「そう。いっちゃん黒板の文字、読めるかなあ。一番手前の方にくだらないの書いてあるの見える?」
「どれだ、ええと、ああ『食パンのベッドで寝たい』ってやつ?」
「そうそう、それわたしが書いたの。将来の夢をみんなで書こうって言ってたはずなんだけど、わたしはそういうふざけ方をして」
 あはは。トーミのやりそうなことだ。つい笑ってしまう。トーミは広報を改めて眺めながら、ゆっくりと言った。
「傷付くことができなかった、っていう、そのままで記憶として残していいんだ。この黒板みたいに。後からいろんな人の言葉や意味を加えられたものよりも、当時から何も変わらない、変わることができないでいるということを、分厚いガラスのなかに入れてもいいんだなあって。傷付くことができなかったこと、そのまんまわたしの大切な震災の遺構になるって、そう思えるような気がしたの」
(104-106)

「でもそれって。それってものすごい残酷なことだよ。ガラスに囲まれていなければ、どこにでもある当たり前の風景なのに。ガラスの中に閉じ込められてそこに『二〇一一年三月十一日』ってキャプション付いたとたん、『特別な意味』になってしまうって、残酷。でもさ、わたしたちってもう、ずっとそのキャプションと一緒に生活するしかないでしょう。それなら少しでも、その『特別な意味』の中にもいろんな人がいて、いろんな人生があるってこと、知ってもらえるようにすればいいんじゃないかって思えるようになった。このままみんなが自分の経験を『もっと大変だった人もいるから自分に話せる資格はない』とか言って黙っているうちに、震災のことを語る人はどんどん減っちゃうし、震災のことを語るっていう一番たいへんな仕事を、結局震災の時一番つらかった人たちにお願いしちゃうってことでしょ。それって、最後まで、なんていうか」
「うん」
「なんていうか、それじゃあ納得しないんだ、わたしは」
(107-108)

 この作品を書くまでわたしは震災のことをなるべく話さなくていいようにしてきたし、話すことがあれば、とても身構えた。震災について「語っていい」のは、それが許されるほど深い傷を負った人か、「進んで責任を負える人」だと思っていた。地震が起きた日、わたしは高校一年の三月だった。それから今に至るまで、特に学生時代は「本当にこれが祈りなんだろうか」と思うことがたくさんあった。思っていないことを言わされているような感覚があって、しかし、思っていることはうまく言葉にすることができなかった。「感謝」「絆」「がんばろう」とひな形のように言語化される以外の祈りの方法をわたしは知らなかったし、学生だった同世代は、おそらくみな教えてもらうことができなかったのではないかと思う。わたしは「被災県在住だが被災者とは言えない」という自分の立場のことをいつも考えていた。関東の人たちからは「がんばって」「おつらかったでしょう」と眉を下げて言われ、しかし、沿岸の方の話を聞くと(なにも失わなくてごめんなさい)と思ってしまう。絶対にいつかこのやり場のない気持ちやもどかしさを書く、と、文芸部で短歌や俳句や随筆を書いていたわたしは思っていた。
(「あとがき」 115-116)

  • 帰宅した母のもとに日赤から電話があった。父は明日の昼に二度目の手術を受けることになったという。面会は母と弟のみ可能。
  • 階下でほぼつけっぱなしにしている石油ファンヒーターが不完全燃焼を起こしているのかなんなのかわからないが、やたらと身体に悪そうなあたまが痛くなるようなにおいが部屋にたちこめていたので、いったん換気した。しかしじきにまたおなじにおいがたちこめはじめたので、ヒーターの劣化が問題なのかもしれないと考え、別の一台を使用したのだが、そちらでもおなじ現象が生じた。それでもしかしたら灯油の問題かもしれないとなった。最近あたらしい灯油を購入したばかりであるのだが、もしかしたらそいつの質がけっこう悪いのではないか、と。おなじ灯油を使っている三台目のヒーターではそこまで悪臭の発生することはなかったので、実際のところ原因がなんであるのかはよくわからないのだが、おなじタイミングでヒーターが二台イカれたと考えるのもさすがにちょっと不自然なので、とりあえず灯油に問題があるかもしれないという前提に立ち、夕食後に弟とそろってコメリであたらしい灯油を買った。灯油はちょうど明日から値上がりするらしかった。寝るとき以外は基本的にヒーターがつけっぱなしの階下で過ごすようにしているこちらであるが、のどの調子がどうも悪くなるような感じがするため、これはおそらく乾燥のためだろうと考えて、入浴後、K用のバスタオルをびしょびしょに濡らし、ハンガーにかけて鴨居に吊るしたのだが、石油ファンヒーターには加湿効果もあるという情報に行き当たった。ほんまけ? そのわりにはのどに乾燥時特有の違和感をおぼえるんやが?
  • 弟とそろっておとずれたコメリでは、ちょっと根暗っぽい若い男の子がレジに入っていた。田舎の、閉店まぎわのホームセンターで、もうひとりのスタッフであるおばちゃんといっしょに、愛想がよろしくなく、レジから小銭をかきあつめる手指の動きもおぼつかなく、なにからなにまで要領の悪い、そんな男の子の姿を見かけると、がんばれ! がんばれ! という気に(いったいどの口どの立場からのアレなのかわからないが)なる。先日Tとおとずれた京都のセブンイレブンでも、いかにも社会復帰したてですという感じの、年齢のわりに頭髪の薄くなった、ものすごくぼそぼそとしゃべる終始うつむき加減の男性が入っていて、やっぱり、がんばれ! がんばれ! と思った。Tもおなじようなことを思うと言った。
  • TからSの実家がなくなっているという話をきいていたが(Tの母君がそう言っていたらしい)、コメリをあとにしてセブンイレブンにむかう道中、本当になくなっていることに気づいてびっくりした。日中出かけていた弟も母とそろってびっくりしたという。セブンのATMで中国建設銀行の口座から8万円×2回をおろしたのち(円安の影響で一度にひきおろすことのできる額が増えた、以前は一度につき7万円しかおろせなかった)、飲みものや甘いものを買ってから、もう一度、Tに送る写真を撮るためにSの実家の前を通ってもらうことにしたのだが、実家はふつうにあった。なくなっていたのはSの実家のとなりのとなりにある宅だった。
  • 夜、『非常時の言葉 震災の後で』(高橋源一郎)も最後まで読んだ。『茄子の輝き』(滝口悠生)も途中まで。
  • Kさんとは毎日少しずつやりとりを交わしている(二、三時間に一度のゆるやかなペースだ)。きのうのやりとりで姉の犬が「村」の実家にまでついてきたという話をきいていたのだが、今日その犬の写真を見せてもらった。歴然たる雑種。中型犬。名前は阿黄。中国では「阿+毛色」はありきたりな名前であるとのこと。年齢は一歳。尻尾の先だけ黒くなっているのが墨汁にひたした毛筆のようで、ちょっとかわいらしい。

20250114

  • 6時起床。変に目が冴えてしまったのだ。しばらく寝床でぐずぐずしたのち階下へ。母も起きる。Kの排尿障害について調べる。きのう弟に「圧迫排尿」のやりかたをいちおう教えてもらったのだが、うまくコツを掴めなかったので、あらためてネットでいろいろ検索してみた格好。それで実際にやってみたところ、コツを掴むことに成功した。横たわっているKの、骨盤のとなりにあるやわらかい部分を両手で左右から——横たわっている姿勢の観点からいえば上下から——はさみこみ、背中から足のほうにぐっと押しこむにすればいいと弟からはきいていたのだが、重要なのは横たわっている体と地面のあいだに差し込むほうの手だった。その手の下にじぶんの足の甲をつっこみ、その足の甲をぐっともちあげるようにする。するとKの自重で膀胱が圧迫される格好になり、それだけでけっこう小便が出るのだ。それにくわえて上から膀胱を押さえこむほうの手にもしっかり力をくわえる。さらにちんこの、去勢済みであるのですでに玉はないのだが、その玉がかつてあったあたりを軽く持ちあげるようにすると、どばどば小便が出るのだ。
  • Kは欲求が満たされているあいだはずっと寝ている。そのKのとなりにこちらも添い寝するようにしていつのまにか居眠りしており、気がつくと10時をまわっていた。弟に圧迫排尿のコツをシェアした。兄とMちゃんのふたりがインフルエンザにかかったという連絡があった。こちらの帰国にあわせて母はユニクロで冬物の寝巻きを買ってくれていたが、それだけでは肌寒かったので、父親がふだん使いしている半纏を借りた。Yくんがうちにおるみたいやと母は言った。
  • 冬場のあいだだけ日当たりのよい庭先に出してあるめだか鉢を見た。サイズの立派な成魚のほうは完全に冬眠状態にあるらしく、水草を寝床代わりにするみたいにひとところにとどまっていた。
  • おそらく問題はないだろうが、いちおう予断を許さない状況とはいえるかもしれないので、これこれこういう事情で中国に戻るのは遅れるかもしれないという連絡をK先生に送っておいた。5%の確率で死亡事故および障害が残る可能性があるらしいと二度目の手術について伝えると、日本ではどうかわからないが中国では無用なトラブルを避けるためにほぼ100%成功する手術であってもかならず医師は成功率が95%であると伝えるという話があった。
  • 母と弟のふたりは病院にむかった。そのあいだこちらはひとりでKの介護をしつつ、たまっている日記を書いたり読み返しを進めたりした。以下は2024å¹´1月10日づけの記事より。初出は2021å¹´1月10日づけの記事との由。

 ほかに、アフォーダンスを物や植物からの声として記述しているのも印象に残った。動植物や無生物と交わすことのできるものとして「会話」という概念を更新・拡張できそうな予感がする。また、熊谷晋一郎のいう「行動のまとめあげパターン」(208)を一種のダンスとして見ることもできるかもしれないと思った。固有の身体と周囲の環境をすりよせた結果ねりあげられていく行動のまとめあげパターンとは、脳性麻痺の熊谷晋一郎やASDの綾屋紗月が、健常者や定型発達者をベースとして設計された環境で生活をする上でのさまざまな工夫を例とすればわかりやすいが、そのような行動のまとめあげパターンとは、健常者であり定型発達者である人間も当然(日々微調整しながら)身につけているものである。こちらがすぐに思いつくのは、たとえば実家でも職場でもいいのだが、日頃長い時間身を置いている環境でのあの動線が決まりきっている感じ、そしてその動線にしたがって移動する足音の数やリズムや響きだけでだれが移動しているのか理解できるあの感じで、そういうパターン化された日常の所作も含めてダンスといってしまってもいいのではないかというのが、書見中、ふとひらめいたことであるのだが、このような概念拡張の先になにがあるのかはまだわからない。
 いちばん印象に残ったのはやはり、『〈責任〉の生成』でも言及されていたが、差異というものが苦痛であり、主体に傷をもたらすものであるという観点だろう。これはポストモダン的な差異の称揚に対して完璧な一石を投じているし、無限にたいして有限を、接続にたいして切断を強調してみせた千葉雅也の戦略とも共鳴する部分がある。徹底的に微分化されたたえまない差異の奔流に身をさらすことは苦痛であるということ、そこにユートピアはないということ(これはかつての分裂症神話、そしてその代替わりとしてもちあげられかねない自閉症神話にたいしてしっかりと釘を刺す)、そう考えるとやはり重要なのは程度問題であり、中途半端さであるのだということになるだろう。物語と出来事の配分、象徴秩序とそこにおさまらない現実的なものの配分、一般性と特異性の配分——「配分」と「度合い」という、決して華やかではなくむしろ地味な概念こそが、今後の哲学をうらなうことになるのだと、部外者だからこそ可能な放言をここでひとつしておこう。そしてそれは「調停」というテーマと大きくかかわるのだ。
 あと、かつて大麻による酩酊状態を、感度を上昇させるという通説とは逆に、あれはむしろ感度を低下させるものであると分析したことがあるが(だからこそ味の濃くてあぶらっぽい食い物をあれほどうまく感じてしまうのであり、反復する単調なリズムにたいしてなすすべなく体が動いてしまったり逆にストーンになってしまうのであり、単純きわまりない物語に感動してしまうのである)、この経験的な仮説も裏打ちを得た感じがする。つまり、自閉症的主体は解像度が高すぎるがゆえに「情報」をまとめあげることができない(象徴化/意味化/物語化/パターン化できない)のに対し、大麻による酩酊状態にある主体は解像度が低すぎるがゆえに本来は複雑極まりない「情報」をたやすく一本化してしまう、つまり「解像度の低下」を引き換えにして入力情報が単純化されてしまうのを「感度の上昇」と理解しているにすぎないというわけだ。酩酊状態のいわゆる「勘ぐり」、それから大麻常用者と陰謀論の相性の良さなども、解像度の低さゆえに物語化が過度に進行してしまうのが原因だろう。ガンギマリの果てに「すべてがわかった」としかいえなくなる状態など、物語化の進行がその極点に達しただけにすぎない、あんなものは悟りでもなんでもない。

  • 以下は2024å¹´1月11日づけの記事より。初出は2021å¹´1月11日づけの記事。「『妄想はなぜ必要か ラカン派の精神病臨床』(コンタルド・カリガリス/小出浩之+西尾彰秦訳)と『〈責任〉の生成——中動態と当事者研究』 (國分功一郎/熊谷晋一郎)を踏まえた内容」とのこと。

「神経症者の自律妄想」という言葉が出てきたが、この考え方がとても面白い。まず神経症的主体の説明として「父の隠喩によって、神経症者は特権的な参照点を獲得し、この点を中心にしてさまざまな意味作用が配分されると同時にひとつの意味作用が神経症者に約束されます。神経症の主体が、父への依拠から手に入れたこの意味作用は、父の系譜から獲得されたものです」(23)とある。それに対して精神病的主体はそのような父を持たず、しかるがゆえにパラノイア的な妄想という手段によって父の機能を組織する必要があるとされる。ここまではラカン派の基礎的な理解だが、精神病的主体のそのような妄想(父なるものの構築)について、「神経症者の自律妄想にもこれと似たものが認められます」とカリガリスはいう。では、その自律妄想とは何かといえば、以下のように説明されている。「この妄想では、無意識の知の側で父の機能が禁圧されるために、主体は意味作用を系譜不在の中で作り上げなくてはならないのです。ですから、神経症者は自分が自分の父であるという隠喩の上に自らを基礎づけることになるのです。」「自律妄想は系譜不在妄想です。「私がすることは私自身の自由選択である。私は自由に選択することができる。私は自由にどんな選択をすることもできる」ということです。」(25)。これはまさしくアーレント的な意志にほかならない。「系譜不在」であることがそのまま「自由に選択することができる」という妄想につながる。そしてこのような自律妄想を、神経症的主体は免れえない。「あらゆる神経症者に共通な運命である自律妄想の中で、神経症者は自分が自分の父の位置にあるという隠喩の上に自らを基礎づけています。そこでは、まるで彼が自分自身の父であるかのようです」(25)。これを自由意志の不在を主張するものとして読むのはおそらくあやまりだろう。それよりも無限性を否定し有限性を主張するものとして、つまり、神経症的主体はあくまでも去勢のほどこされた主体であるという当然の事実を確認するものとして読むべきだろう。「意志」とは、「自律妄想」に過ぎない。

  • 母と弟が帰宅する。病院は面会謝絶だったという。署名したふたりは自由に出入りできるものと母は思っていたが、そうではなかったらしい。夜、病院でもらった資料を母がチェックしていたところ、一般病棟に移って以降もやはり面会はできないと記されていることを発見。コロナ以降はずっとそういう体制がとられているようす。父はひとりで暇つぶしのできる人種ではないのでけっこう退屈するかもしれない。いや、個室に移って以降はいちおうテレビがあるし、まあ、だいじょうぶといえばだいじょうぶか。
  • 弟の運転で図書館へ。蔵書検索でキーワード「震災」と打ち込んだなかから目についたものを複数借りる。『非常時のことば 震災の後で』(高橋源一郎)、『氷柱の声』(くどうれいん)、『茄子の輝き』(滝口悠生)。それにくわえて本棚で目についた『abさんご』(黒田夏子)も借りる。帰宅後は夜までKの介護をしつつ『非常時のことば 震災の後で』(高橋源一郎)と『氷柱の声』(くどうれいん)を読みすすめた。
  • ひとつ書き忘れていたことを思いだした。Cの空港近くのホテルで宿泊した夜、C.N先生から来学期(…)の授業も担当してほしいと頼まれたのだった。断ってもいいという話だったし、あと一年でかの大学を去ることが決まっている現状、わざわざ恩を売る必要もまったくないのだが、現状、(…)の日語会話(二)と日語会話(四)と日語基礎写作(二)と文学系の新規授業ひとつの四つだけというのはけっこう少ないし、それに(…)の授業でお願いしたいものは日語会話(四)と文学系の新規授業のふたつのみでどちらも(…)で担当する科目であるからあらためて授業準備をする必要もないものである。そういうわけでどうしてもというのであればというかたちで引き受けたのだった。ま、立つ鳥跡を濁さず、やね。学生らがこちらの授業をもとめているという事情もある。もとめられているうちが華よ。

20250113

  • 朝、リビングでNちゃんの作ってくれたトーストを食っていると(ブロッコリーとミニトマトとチーズとマヨネーズがのっかっているクソうまいやつ)、弟から着信があった。どうせ今晩の食事の話だろうと思い(弟のその日の献立に対するこだわりは異常なのだ)、絶対そうだから聞いていてくれと夫妻に告げてからおりかえし電話をかけてスピーカーフォンにしたところ、父親が救急車で運ばれたという話だった。ぜんぜん献立関係あらへんやんけ! これから心臓の手術を受ける、どういう状況でありどうなるかはいまのところまだわからないとのこと。通話を終えてほどなく今度は母から電話があった。救急車のなかで心肺停止、AEDを三発ぶっぱなしてかろうじてよみがえったが——と声をふるわせているので、いまメシ食っとるしとりあえず食い終わったらそっちむかうわと応じた。
  • 急すぎる展開に夫妻はびっくりしていた。こちらはわりあい平静であり、(先日山中にて遺体で発見された)Tの親父に続いて二人目の犠牲者はうちの父やんかとか、新年早々職場潰れて親父死ぬとか盆と正月がいっぺんに来たみたいやなとか、父やん死んだら四十九日が終わるまではこっちおれって言われるやろうから冬休み延長やんけ! などとブラックジョークをかます余裕すらあったのだが、同時に、これはもしかしたら一種の防衛機制かもしれないなとあたまの片隅で考えてもいた。
  • 食後、身支度をととのえてから、寝室でひとり休んでいるGのところに行き、先生もう帰るわな、お父さん病気になってしもてんと告げると、今日も泊まってとあまえた声でおねだりされた。Gとしてはせっかくこちらがやってきたというのに、風邪をひいていたせいでどこにもお出かけできずろくに遊べず、さらにいえばおもちゃを買ってもらうこともできず、けっこうフラストレーションがたまっていたのかもしれない。そういうわけでうちを出る直前、わざわざNちゃんがGを抱いて玄関先まで見送りにきてくれたのだが、さよならの場面でこれまで一度も泣いたり悲しんだりごねたりしたことがないというあのGが今日! はじめて! 半泣きになった! これにはTもびっくりしていた。玄関先で抱かれているGに、Gちゃん行くわ! またな! と助手席から声をかけると、Gはこちらから目をそむけるようにしてNちゃんの胸に顔を押し当て、手だけをぞんざいにバイバイしてみせたのだ。これはなかなかめずらしいものを見た。
  • S駅で車をおりた。TとベビーカーのSが改札前まで送ってくれた。さすがにいつもみたいに電車で読書はできやんかなと漏らすと、いやそりゃそうやろとTは言ったが、急行で大和八木まで移動してそこで特急に乗り換えて以降、ふつうに『東京の生活史』(岸政彦・編)の続きを読んで過ごした。ま、人生そんなもんやわな。大和八木で乗り換えの特急がやってくるのを待っているあいだ、弟に電話した。(…)駅に到着する時刻を告げたついでに、あらためてどういう状況であったのかを確認。父親は救急車に乗るまでのあいだふつうに意識があったという。ということは思ったよりも深刻なアレではないのかもしれない。母親にも電話。手術はおよそ二時間。こちらが(…)駅に到着するころにはすでに終わっている計算になる。医者からは息子三人をはじめとする身内のものらを呼び寄せるようにと言われていたわけだが、母はひとまず父の兄である「Oのおじさん」に連絡をとったらしい(「Oのおじさん」は父方の親戚で唯一まともに付き合いがある人物だ)。
  • (…)駅に到着したのは13時前だった。裏口に出てほどなく弟の運転する車がやってきた。そのまま日赤へ。すでに手術の終わっている時間帯であるが、弟は父が現在どのような状態であるか知らないという。Kの介護をする必要もあるし、なにかと入り用のものもあるかもしれないしで、実家でひとりいつでも呼び出しに対応できるように待機していたらしい。後遺症が残って要介護になったらいろいろ厄介なことになるなと話した。その場合はこちらが本帰国する可能性も考える必要が出てくるわけだが、それよりも施設でみてもらうなりデイケアに依頼するなりしてその費用をこちらが中国から仕送りというかたちで送ったほうがおそらくこちらにとっても弟にとっても都合がいいだろうという話もした。Tの親父が認知症で行方不明になったやろ? あれの捜索願いポスターさ、なんでか知らんけどファーストネームだけひらがなになっとったからさ、なんねこれ選挙ポスターけ? ってTにいうてふざけとったんやけどな、見事にバチ当たってもうたわ! というと、ブラックジョークにすんのがはやすぎるわと弟は苦笑していた。
  • 今日は祝日なのだった。そういうわけで日赤は緊急外来用の裏口しか開いていなかった。入ってすぐの廊下に長テーブルがふたつ設置されており、面会希望者はそこでサインをする仕組みになっているようだった。すぐそばには緊急外来の窓口もあった。そこに顔を突っ込んで、今日の午前中にこっちに運ばれたMの親族ですけどもと切り出すと、勝手知ったるようすの白衣のスタッフが、廊下をまっすぐ行って右手に折れた先に赤いエレベーターがあるのでそれで二階へといった。それで言われたとおりに移動した先で、母とMちゃんとYとHと合流した。
  • 手術はひとまず終わった。意識もとりもどした。いまはICUに入っているが、ふつうに会話することもできるという。「Oのおじさん」はすでに去った。兄は体調不良で来れなかった(インフルエンザの疑いがあるようす)。手術を終えた医者は、子どもを全員呼べとあらかじめ告げてあったにもかかわらずだれひとりとしてきていないという状況に怒り心頭で、どうして息子さんがだれもいないんですかと母を叱りつけたという。ほんなもんそれぞれ事情っちゅうもんがあんねんというアレであるが、「Oのおじさん」曰く、「医者なんてあんなもんや」。それで医者の説明は、母と「Oのおじさん」とMちゃんの三人が聞いたというのだが(YとHは退屈なので当然ゲームをしていた)、心臓の周囲にあるぶっとい血管三本のうち一本がわやになっており、今日の手術ではひとまずそこにステントを通した。で、残り二本も現状かなりボロボロであるので、今後の経過次第であるが、はやい場合は16日に二度目の手術を行い、その二本も治療する計画であるという。血管は三本ともかなりボロボロであるらしく、今回死んだ一本にいたっては「あぶらかす」がたまりにたまっていたということで、この状況でふつうに生活していたのが信じられないと医者は語っていた(ふつうこの状況であれば息切れしやすいとか疲れやすいとかそういう身体的違和感をおぼえるものらしい)。病院に運ばれたタイミングもベストだった。もうあと一時間遅かったらどうしようもなかったらしい。二度目の手術の結果なにかしらの問題(死亡や後遺症など)が発生する確率はおよそ5パーセント。まあだいじょうぶやろとなったが、父親はしかしギャンブルに弱い、パチンコでしょっちゅう負ける。
  • 病名としては急性心筋梗塞。Tの会社の社長も若いときに一発くらっているが、ペースメーカーを入れて元気に働きまくっている。Mちゃんの親戚にもふたりいるが、やはりいまでも元気にしている。母が通っている美容室の店長も同様。ICUに入っているあいだ、面会が許されるのはふたりのみ。それもICUに入った段階で署名したふたり限定でのちほどそのメンバーを交代することはできないというルールらしく、父が運ばれた直後に母と弟が便宜的にサインした関係上今後ICUをおとずれることができるのはそのふたりのみという縛りが発生するのだが、今日だけは特例ではるばる外国から駆けつけたというていになっているこちらを入れてくれるという。それでMちゃんら三人とは別れ(姪っ子ふたりには後日あらためてお年玉をあげる約束をした)、ICUのなかに入った。
  • 父はベッドにあおむけになっていた。意識はあったし、会話もふつうに可能だった。死んだと思うて四十九日計算しとったんやけどと告げると、アホかと表情で応じてみせた。記憶はないという。胸が痛くなったのもおぼえている、救急車を呼んでくれと言ったのもおぼえている、しかし救急車に歩いていったときのことはよくおぼえていないし、中に入ってからのことは完全におぼえていない。母曰く、父は家のなかで肩を貸そうとした弟をふりはらい、じぶんの足で玄関の階段をおりて救急車に乗りこもうとしたが、救急隊員にたんかの上に横になるようにといわれてしぶしぶ横になったという。そして救急車のなかに運びこまれた瞬間、朝から食っていたカップラーメンを吐き出した。救急隊員は母の許可をとったあと、はさみでパジャマを裂き(先日ユニクロで買ったばかりのものだった)、AEDをセットした。すると、ピーーーー! という警告音がなり、モニターが赤だか黄色だかになった。その一部始終をながめながら、母は事態がうまく飲みこめなかった。ほんのついさっきまでひとりで歩きながら憎まれ口をたたいていた父が、救急車のなかに運びこまれたその瞬間、心肺停止にいたったという事実にリアリティが感じられなかったのだろう。保険証をもって遅れてやってきた弟は、心臓マッサージを受けているためにゆれている救急車を外から見て、あ、あかん、死んだわ、と思ったという。手術は全身麻酔ではなかった。だから医師らの言葉もよくきこえたと父は言った。医師からは10人に1人の運の良さだと言われたという。倒れてから搬送されるまでの状況がかなり理想的であった、と。こちらとしては父が仕事帰りにぶっ倒れなくてよかった、運転中に失神することでもあればじぶんだけではなく周囲を巻き込むことになるからという感じだったのだが、それよりももっとリアルにありえたケースとして、弟は山登り中でなくてよかったといった。父は仕事のない日、しょっちゅうひとりで近所の山をのぼるのだ。仮に山のなかでぶっ倒れていたとしたら、それこそTの親父とおなじ末路をたどっていただろう。
  • 父から水を買ってきてほしいとたのまれたのでICUをそろって出た。これで今後ICU内に出入りできるのは母と弟のふたりだけということになる。病院内で父にたのまれた水のほかわれわれのコーヒーや菓子類を買った。それから入院セット(パジャマだのおむつだのが一日いくらで使いたい放題になるというやつ)の申し込み用紙を記入し、スタッフからそれについての説明を受けたのち、病院をあとにした。
  • 帰宅。車を停めたところで近所の老人らがぞろぞろやってきた。散歩中の男性(母がいうには近所に住んでいるひと)、おとなりのAさん(88歳であるにもかかわらず毎日ひとりで車を運転して農作物の手入れに出かけている)、斜向かいのDさん(Sくんの母君でいまはひとり暮らしをしているパチンコ中毒者)たちだ。みんな救急車で父が運ばれていくところを見ていたらしい。DさんにいたってはKの置かれている状況を知っていることもあり、仮に救急車に母と弟のふたりが同乗するようであれば、じぶんがKの介護をしてあげようと考えてくれていたという。
  • Kは寝たきりでガリガリになっていたが、思っていたよりも元気そうにしていた。うんこを大量にもらしていたので母とそろってその処理をした。弟は置き時計だの電気シェーバーだのをもってふたたび病院にむかった。Kはいまでもぎりぎりじぶんで寝返りを打つことができるという。前回の一時帰国時は夜中によく息をあえがせていたがその原因がわからず、二時間も三時間もただひたすらそばにつきそうということがたびたびあったわけだが、いまはもうそれもないらしい。基本的に(1)一日三度の食事の時間(2)のどが渇いたとき(3)小便がしたいとき(4)うんこがしたいときのみ、息をはっはっはっはっとしてアピールするらしい(すでに鳴くことはできない)。うんこについては前回の一時帰国時と同様、肛門の周辺をマッサージしてやると自然とまろび出てくるらしいのだが、いまは排尿障害もあるようで、弟がネットで調べた「圧迫排尿」というやりかたでしぼりだすようにしているという。そのやりかたを教えてもらったのだが、夜中、弟がすでに寝たあと、Kがはっはっはっはっと言いだしたので、こちらと母のふたりでさっそく弟に教えてもらったその「圧迫排尿」を試してみたのだが、いまひとつうまくいかなかった。どうもコツをつかむのがむずかしい。
  • TにLINEで「M.Y、奇跡の生還! 次男、四十九日を口実にしての冬休み延長ならず!」と送った。ついでにGのようすをたずねたところ、こちらが去ったあとに「また家族だけになってしまったな!」と口にしていたらしい。おもろすぎる。
  • その後はたまっている日記を書いて過ごした。早起きだったこともあり、夜はけっこうはやめに寝た。