sengoku38 の行為について

これを言うのは我流の読み方が過ぎる、あるいは意地悪になってしまうかも知れないけれど、玄倉川さんの記事「ビデオ流出は「ハプニング」」を読んでいて、過去に小沢一郎および鳩山元首相が天皇陛下習近平・中国国家副主席との会見を強引にねじ込んだことに対する氏のご見解とじゃっかんの矛盾があるのではないかと思った。
こうした政治的な判断が優先されるような案件で、公務員個々人が独自の判断で動くことについて、政府として、国家として統制がとれないから問題だと言うのは基本的にその通りだと思う。
他の類似した問題、公務員の国歌斉唱の問題や、田母神航空自衛隊幕僚長の発言の問題、そして前記の「天皇習近平・会見問題」における宮内庁長官の発言の問題でも、一貫した態度をとってきたと私自身の態度については考えている。
自民党総裁の谷垣氏が戦前の「無政府状態」に絡めて、sengoku38 の行為を擁護してはいないのはさすがにひとつのご見識だと思うが、谷垣氏についても、ならばどうして「習近平氏問題」の時、宮内庁長官を断固として批判しなかったのか、その「揺れ」は気にかかる。
しかし、とこの場合、つまり sengoku38 について言うならば、また別の評価をすることも可能だと私は考えている。第一に、sengoku38 の職務に政治的な意味合い、任命がないためであり、第二に今回の件は国民の知る権利と大きくかかわっているからである。
国民が自らの判断をなすうえで、政府というよりは行政は、情報を公開すべきであり、これが刑事案件であるという基本的な筋論を言うならば、それを秘匿しようとする側に正当性がないからである。
公務員は究極的には憲法に、国民に、国家に仕えるものであって、政府の指示命令があれば何をしてもいいということには決してならない。逆に言えば、本来的な任務を政府が果たさない時には、個々の公務員がそれを果たす責があると私は思う。
これは、アイヒマン裁判や杉原千畝の行為を肯定するならば避けがたい論理的帰結である。
ウォーターゲイト事件におけるディープスロートの役割をどう評価するのかという問題でもある。
たとえ外交的な必然があったのだとしても、法治国家にあってはしてはならないこと、出来ないことが政府にもあるということだ。
菅内閣、仙石官房長官の判断はここに抵触する悪手であり、国家を統御するうえでごく基本的な原理原則の把握ができていないからそういう判断になってしまうのだと思う。
少し問題は違うが、どれほど批判の内容が正当であっても、高校教育に支援をするならば、朝鮮学校を除外はできないというのと同じことである。するべきかしないべきかではなく、出来ない、のである。
国民的な判断が求められ、なおかつ、通常の刑事事件としては異常な処理の仕方を政府がした以上、それに関する基本的な資料を国民に公開するのは民主主義国家としては当たり前の話である。
中国で働いている日本人が拘束され、死刑になるのだとしても、政府はもちろん抗議をし、「可能な限り」それを避けるべく努力をすべきであるが、「可能ではない」範囲のことはできないのであり、その結果、日本人ビジネスマンが中国政府の判断で処刑されるならば、それは中国政府の判断と責任の問題である。
それが外国で、つまり日本の法律が直接及ばない場所で働き、生活するという意味である。企業や従業員はそのリスクをとって利益を得ているのだから、リスクはリスクとして自己責任で負うべきだろう。
したがって、私は sengoku38 の行為については、肯定はしないが、全否定はできないしするべきでもないと思う。責められるべきは個々の公務員にそうしたぎりぎりの選択を迫っている政府である。
正義とは決して単なる理念でもなければ飾りでもない。それは法よりもさらに深いレベルで個々人を律するべき行動規範なのである。このレベルでの選択を迫ること自体、菅内閣の判断が不適当なものであったことの証であり、本来、内閣が負うべき原則を維持する責務を果たさなかったからこその結果である。