尊皇感情について

私のように皇室や王室、貴族の称号について多くを書いていると、当然のように尊皇家だと思う人が多く、実際、わりあい範囲が狭い「王室関係ブロガー」業界の人たちの多くは尊皇家であり、それがその業界から私が弾き飛ばされた理由である。
私は歴史的なトリビアとしてそういう話が好きではあるけれども、基本的に共和主義者なので、尊皇感情は希薄だからである。
今上の両陛下は心から尊敬している。しかしそれはおふたりのご人格ゆえであり、地位ゆえではない。同様の感情をたとえば昭和天皇とその皇后に対して抱くのは難しい。
今回の習近平特例会見事件で、理非を弁えぬ素朴な尊皇家が広範に存在することが明らかになった。
非常に危険な現象であると思う。
庶民がそれを持ったり、猶予としてそれを持つ分には構わないと思うが、指導者層までその虚構にはまるのは実に危険な現象だ。
明治維新を成し遂げた元勲たちのうち、誰が「尊皇感情」などを持っていたか。リアリズムを忘れて、ロマンチシズムの陶酔に指導者がふけるのは、地獄への直通道路であろう。
日本国憲法の要諦は、国民主権にある。
八月革命説を越える主権移動の説明は無く、日本国は基本は共和国であり君主国ではない。立憲君主国家だとしてもそれは君主権限の制限が主眼におかれているのであり、ありていに言えば、君主は飾りである。
明治憲法下でさえ、君主の装飾性を理由として昭和天皇の戦争責任を免除しているのに、外交権限において日本国憲法下で天皇が独自の権限を持つことはあり得ない。
外交権限は行政府の管轄であり、行政権限は行政府のみが持つ。
その前提に立つ場合、天皇の外交局面における立場は以下の二つにしかならない。
第一に天皇は国事行為以外に関与してはならない。
第二に天皇の公的行為は内閣の管轄下に置かれる。
天皇の政治利用を懸念するならば第一の立場を採るべきだろう。
天皇の政治から外れた暴走を懸念するならば第二の立場を採るべきだろう。
天皇の公的行為そのものは容認して、なおかつ内閣の管轄外に置くという折衷は成りたたない。
http://sessai.cocolog-nifty.com/blog/2009/12/post-d2b6.html
雪斎氏の上記の論などは保守主義者の劣化を如実に示すものとしか言いようがない。


まして、天皇ではなく宮内庁や外務省はこれははっきりと内閣に属する、もしくは内閣の下部機関である。
政治的な妥当性や、営々と築いてきた象徴天皇制の慣行の配慮の問題は別にして、内閣の指示と方針に対して、宮内庁官僚が異を公然と唱えることは、これは単純に指示系統違反の問題である。
小沢一郎が批判しているのは宮内庁長官であって、天皇ではない。
あたかも自らが天皇であるかのように、行政行為において行政府の指揮系統を乱しているのは誰か。
筋論を押し通すならば、陛下の袖にすがりつき陛下を利用しているのが誰なのかは明らかである。