(理系にこそ伝えたい)思想とは何か

人工知能の進歩が目覚ましいですね。とくに最近発表されたChatGPT、ホント凄いですよね。

人間にしか出来ないと思われていたようなことが次々と人工知能によって実現されていくのを目の当たりにして、今、そして、この先の技術的な進歩が、我々をどのような社会へ導いていくのか期待と不安が入り混じる今日この頃であります。

人工知能の個々の研究成果それ自体は、科学技術的に実現された100%の再現性のある客観的ファクトですが、そのファクトを見て「何を思うか」は人それぞれでしょう。未来に不安を感じる人もいれば、ワクワクする人もいる。そして少数の天才たちは、それらを「作りだす側」つまり「技術開発の担い手」として大いなる希望のもとに仕事に取り組んでいることでしょう。

ここで本記事の主題を提示しましょう。それは、理系人間が陥りがちな思考パターン、すなわち、「人それぞれなこと」に関する解像度の低さについて、です。

人工知能の進歩は、確かにすごい。それらをひとつづつキャッチアップし、「今技術がどこまで進んでいるのか」について敏感であることは重要なことである、と。このことについては、理系人間の多くが賛同することでしょう。

しかし、それらの技術進歩のファクトをみて、個々の人々が何を感じ、どう解釈したかについては、「人それぞれなのだから、そこに何か人類の知的な成果物などは期待できない」と思ってはいないでしょうか?

このことは、非常に、本当に非常に重要なことなのです。私は大学では理系の学問を専攻しましたし、理系の知識の重要性についてはしっかりと理解しているつもりです。その自分のバックグラウンドをふまえてもなお、人文哲学における知が理系の知と同等かそれ以上に重要であることについて、同輩である理系諸兄に対して強く訴えざるを得ないという気持ちがあります。

「人それぞれ」なことについて、「知」を見出しうるのだ、という諒解こそがまず人文哲学における知の価値を理系人間が認める第一歩です。

例えば、ここに二つの意見があったとしましょう。

(意見1)人工知能は、いずれ意識を持つ

(意見2)人工知能は、決して意識を持ち得ない

この2つの意見のうち、いずれが「妥当」すなわち「真実に近い」かを「現時点」で議論することに「意義」を感じるでしょうか?

そういう問いを立てると、理系人間の多くはこう答えるのではないでしょうか?

そんな未来のことを現時点で考える意味はない。手を動かし実現できたことがすべてだ。机上の空論などする暇があったら手を動かせ、論文を書け

と。

しかし、人文哲学の分野ではそうした考え方は「知の怠慢」と考えます。理系が信じる「自然科学の方法論」は、実験や観察に基づく実証的で客観的な事実を専ら人類の知の根拠として採用するという方法論です。この態度は、人類が本来持ってるはずの知を、万人に共有しうる物理的で客観的なもののみにしか適用しない、ことを意味します。

本来、人間は実験や観察に依らずとも「神」とか「宇宙」といった観念的な世界に対しても考察を及ぼさせることが出来ます。神というと、「それは宗教じゃないか。人類の知などとは程遠いものだ。」というツッコミがあるかもしれませんが、人文哲学における知は宗教とは大いに異なるのです。

宗教における「神」は、(その当該)宗教の中では「疑う余地のない真理」として「教義」による正当性が強制されます。しかし、人文哲学における「神」は、「いつでもその存在について疑問をさしはさむ余地を許す存在」なのです。そこが宗教との決定的な違いです。

人それぞれ、神についての見方や考え方はことなります。だから神について自然科学的に研究することは出来ません。自然科学とは万人にとって疑いようのないファクトだけに依拠して組み立てる知の方法論ですから。

しかし、そうした人によって考え方が異なる「神」という概念にさえ、いくつかの考え方を提起することが出来ます。簡単な例で言えば、神は唯一の存在であるという一神論と、神は至る所に遍在するという八百万の多神論。人間の知を使って、この2つの間にどのくらい「真理性」があるかを「吟味」することが出来ます。

そして、例えばイスラム圏の人たちにとっては「一神論」の正当性を支持する根拠が示され、それが多神教の文化圏の人々にとっても「受け入れ可能な知」でもあったりするわけです。

だから、科学を信奉し、それ以外の知を「蓄積性のない思慮」と一蹴するような「理系にありがちな態度」は非常にもったいないと思うのです。


科学の世界では「理論」という言葉が良く使われます。理論という言葉には、それが正しいか否かが(例えいまは技術的に不可能であっても原理的にはいずれ)実験や観察によって万人共通のファクトして示されうる、というニュアンスが含まれています。

この科学における理論という対に相当するのが、哲学における「思想」です。個々の思想は、万人共通のファクトということにはなりませんが、ある一定数の、それはマジョリティかもしれないし、マイノリティかもしれない、あるいは一定の条件に当てはまる人間の集団かもしれない、そうした「ある人々にとっての真理性」が蓋然的であるような知ということになります。

これは、科学における理論の重要性と同等あるいはそれ以上に人類が蓄積し後世に受け継いでいくべき価値のあるものだと考えられないでしょうか。

思想は確かに「人それぞれ」です。しかし、それでもなお人類の知としての価値を確かにもっているのだという立場に立つこと、これが同胞としての理系諸兄に私が強く訴えたいことなのです。

どうか、人工知能の技術的進歩のファクトだけに目を向けないでください。それをどう解釈し、現在と未来をどう考えるかという哲学、そして思想にも目を向け、その知を我らが理系同胞たちの手によっても深めていくような、そういう世界を一緒に作ることに賛同していただきたいのです。