概念上の「貧乏人」と実存する「貧乏人」を混同して語る愚かさ。

格差社会って何だろう - 内田樹の研究室

人生論として見るなら別に個人の自由だから構わないけれど、これを社会全般に適応させるのは間違ってるよね。しかも、現状認識もズレてる気がする。

まず、「格差社会」なんて言葉が出てくるようになったのは、もちろんメディアが過剰に騒ぎ立てている部分もあるけれど、餓死者や自殺者といった「貧困の犠牲者」と「ネットカフェ難民」のようなその「予備軍」が目に見えて増加してきたからに他ならない。

彼らに必要なのは具体的な「住居」であり「食事」であるが、自給自足が可能な環境でない限り、「住居」と「食事」は「消費」という手段を経なければ手に入らない。またそうした環境を獲得し維持するための「職」と「収入」も必要となれるが、それらは往々にして「収益の最大化」を強く求められる。それを拒否すれば「職」と「収入」が消失し、「消費」を通じた「住居」と「食事」の確保もできなくなる。政府による再分配機能も力を弱める一方だし、それにかわる「家族」や「地域」といった受け皿としてのコミュニティも崩壊したままなのに、そこでどうやって「生きていく」ことができるのだろうか。

現在、「格差社会」を問題視して「金を!」と声高に叫ぶ人々は、なにも「今持っている以上の金」を要求しているわけではない。大半の人々は「今最低限必要な金」すら持っていないから、それを要求しているのではないだろうか。彼らは概念上の「貧乏人」なのではなく、実存としての「貧乏人」なのである。だからこそ、彼らには「具体的な手当て=金」が必要なのだ。それが最も的確かつ素早く彼らを「生存の危機」から救うことになるのは明白だろう。

また、現状でそういう状態にない人であっても、「一歩間違えば」自分がそういう状態に陥ることは分かっている。だからこそ、その状況に「NO」を唱えているのではないか。

「もっと金を」というソリューションを提示する人々は、論理的に言えば、彼ら自身「貧乏人」であり、その読者たちもまた「貧乏人」であり続ける他ないということになるであろう。

それこそ「貧困」から切り離されたからこそ言える論理だろう。実際に飢えている人に「敬意」を払ってもそいつが餓死するのを止めることはできない。その彼が死んでしまったら払われた「敬意」になんの意味もないだろう。まるで、昔あった国の軍隊みたいな話だと僕は思うのだけれど。多分、彼らは「貧乏人」だと言われても一向に構わないだろう。何故なら、彼らは「死にたくない」だけなのだから。「貧困による死」の不安をできるだけ遠くに追いやりたいのだ。まさに雨宮処凛の「生きさせろ!」そのままなんじゃないだろうか。

「貧困による死」が厄介なのは、それが「今すぐに」襲ってくるわけではないということだ。たとえば「ネットカフェ難民」であっても、今日や明日、2年、3年後に死ぬとは思っていないだろう。しかし10年後、20年後には確実に「貧困による死」がやってくる。僕にとっても他人事ではない。だから、「今動けるうちに」そこから抜け出すための「原資=金」と、いつでもそれを獲得できる環境の整備を必要としているのだ。

彼らが求めているのは「敬意」などという曖昧な概念ではない。何よりも「生存する」という、どんな生物でも持っている最も基本的な願望を満たす為だけの「金」を求めているに過ぎない。「たったそれだけのもの」も与えられない人間が払う「敬意」に何の価値があるだろうか。そんなもの、まずは彼らの「生存」を保障してからいくらでも与えてやればいいじゃないか。

「格差社会」は、「人間的価値」の格差なんていう生ぬるいものではなく、「生存可能性」の格差に他ならない。僕はモルデカイ・シュシャーニ師のことは詳しくしらないが、誰しもが彼のような位置まで到達できるわけではないだろう。多くの人がそうであるように、僕も「貧困による死」は恐ろしい。だからこそ叫ぶのだ。「もっと金を!」と。

さあ、全ての貧乏人よ。叫ぶんだ。
「はてなスターTシャツ欲しい!」

と。