ようやく分かった。僕は「失敗作」だったんだ。

http://www.asahi.com/edu/news/TKY200611290420.html
教育再生会議というごっこ遊びはもう止めにしませんか - 今日行く審議会@はてな

「戦後教育」というタームが具体的にいつからいつまでを指すのかは知らないし、「ゆとり教育」による弊害が一体どのくらいの時期から出始めた(とされている)のかも知らない。

ただひとつ、今更ながら気が付いたのは、1980年に生まれて1987年〜1996年までを義務教育期間として過ごした僕は、彼らからすれば間違いなく「失敗作」なのだということ。

ついさっきまで気が付かなかった。まさに「クリリンのことかーっ!!!!!」ってな感じ。

でもって、僕の後に教育を受けてきた人達や、今まさに教育を受けている子ども達も同じような評価を受けるのだろう。

教育の失敗という教育神話(再掲) - 今日行く審議会@はてな

別に「成功」でも「失敗」でも構わないし、彼らに評価されたいとも思わないのだけれど、「失敗作」とするからにはそれなりの評価基準を提示して貰いたい。

そして何より、「教育」は誰もが平等に受けとることができる権利なのだとしたら、それを「失敗した」責任は一体誰が負うべきなのか、彼らはちゃんと考えているのかな。

別にこれまでの「教育」を「失敗」として認めるのは構わない。だがその瞬間、「失敗」の成果物たる僕達は、「失敗」という事実をもって誰かを追求することになる。

その「誰か」が一体「誰」なのか。それは判断が必要だろう。年齢によっても、また個人によっても違うのかもしれない。

ただ、一方的に「教育の失敗」を煽り立てる人達は、その批判の矛先が向かう方向を真剣に考えた方がいいと思う。「どんな批判でも受ける!!」って覚悟がある人はいいけれど。「日教組」をスケープゴートにしてそれで逃げられると本気で思ってるのかな?

もっと言うと、一部の方々は、その「失敗作」にこれから先何年も養って貰わなければならないって事実に気が付いているのかな?いいの?あんまり勝手なこと言ってると「姥捨て山」に捨てちゃうよ?僕ら「失敗作」だし、なんとも思わないよ?そもそも、あなた達が僕の「教育」を「失敗」したんだぜ?

個人的にはある一定の年代以上の人は僕に土下座して謝って欲しいんだけど。「君の教育に失敗して誠に申し訳ない」って。「教育現場にいなかった」とか「日教組には昔から反対だった」とか言い訳は許さない。僕は「全て国民に責任がある」と思っているから。「美しい国」万歳だ。

まあ、無責任に「教育の失敗」を嘆く人はたくさんいるけれど、その責任を本気で取ろうとしている人はあまりいないようだ。そうしている間に、彼らの言う「失敗の成果物」は日々量産されている。

僕にもいつか、フランケンシュタイン博士の如く自らの「失敗作」に復讐される日が来るのかもしれない。