基本読書

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活版印刷以来の最大の革命を引き起こした、現代のインターネットともいえる「電信」の誕生──『ヴィクトリア朝時代のインターネット』

約200年前の19世紀。科学は未発達で、現在は一般的なものが存在しない時代だ。抗生物質はみつかっていないし(抗生物質は20世紀)、ライト兄弟が飛行を成功させたのも1903年のこと。しかしヴィクトリア朝時代には「インターネット」はあったのだ──というのが、本書『ヴィクトリア朝時代のインターネット』の主張である。

いくらなんでもヴィクトリア朝時代(一般的に、ヴィクトリア朝は、ヴィクトリア女王がイギリスを統治していた1837年から1901年の期間を指す)にインターネットはないでしょと思うだろうし、実際現在と同じようなインターネットは存在しない。しかし19世紀には「電信」が存在し、それは現在のインターネットと同じものとして機能していた。都市間、国家間にケーブルを張り巡らせることで、今のインターネットほど光速ではないし便利でもないが、情報は瞬時に国を超えて伝わっていたのである。

それまではみな馬や船や強化手旗信号で情報をやりとりしていたのだから、それが世界にもたらした驚愕と変化には凄まじいものがあった。本書は、世界を一変させたテクノロジーである電信の誕生とそれによる社会の変革、その終わりまでを丹念に追っていく一冊だ。電信がもたらした市井の人々の生活の変化、その受容は、インターネットが受け入れられ、普及していくまでの過程と驚くほど似ている。

電信はコミュニケーションにおいて、活版印刷以来の最大の革命を引き起こした。現代のインターネットの利用者は、多くの点で電信の伝統の後継者である。(……)
 電信の興亡は、科学的発見や巧妙なテクノロジー、そして抗争や熾烈な競争の物語だ。それはまた、ある人にとっては楽観主義の精神そのものであるが、他の人には新しい犯罪の方法だったり、ロマンスを始めるものだったり、手早く儲ける手段だったりする。それらは昔からテクノロジー自体のせいにされがちだが、われわれが新しいテクノロジーにどう反応するかの教訓に満ちた寓話でもある。(p.10-11)

最初の原著の刊行は1998年のこと(その後2007年に新版が刊行。NTT出版での邦訳は2011年で本書は早川書房の文庫版)で刊行からだいぶ時間が経ってはいるが、そもそも原書刊行当時から電信は枯れた技術であったのだから、その価値が当時と今とで変わるものでもない。今の読者が読んでも、新鮮な気持ちで読めるはずだ。

電信以前

電信によって世界のメッセージの伝達効率は飛躍的に高まったが、それ以前に電信的なものがなかったわけではない。たとえば視覚伝達による遠距離通信を行う「テレグラフ」(もしくは腕木通信)と呼ばれた通信方式があった。これが発明されたのは18世紀末のこと。その仕組みは単純で、いわば大型の手旗信号のようなものだ。

この方式では、二本の腕のような板を回転させ、それを望遠鏡で視認してバケツリレー的に伝達することで情報を遠方まで運んでいた。冷静に考えればわかるが、これはそこまで便利ではない。要員を常駐させる必要があるし、霧や雨なら使えない。しかし馬や人間が情報を伝達することを考えるとはるかに有用だったので、多くの人が熱狂し最盛期にはヨーロッパでテレグラフのための塔の総数は1千本になったという。

そして、この原初テレグラフと同時に模索されていたのが「電気を使ったテレグラフ」だった。18世紀にはすでに電気の性質が徐々に解明されつつあり、電気が遠くまで、素早く届くこともわかっていた。そうすると、この電気を使って情報を伝達しようじゃないか、という発明者が現れるのも必然と言える。

電信とは何か

電気式のテレグラフについては、1837年のヴィクトリア女王の即位までに60以上の実験装置が作られていたようだ。電線を用意して電気を流せばそれでスタートラインに立ったようなものだから、誰もが手を出しやすい実験だったとはいえるだろう。

現在では誰もが簡単に電気式のテレグラフをつくることができる。電球と電池とそれをつなぐ電線があれば、あとは電池と電線を繋いだり離したりすればいいだけだ。19世紀最初期にその単純なことができなかったのは、電球のように電気を検知するための手軽な方法がないからだった(電池はあった)。しかし、1820年には電線に電流が流れると磁界が生じることが発見され、電磁石を用いて電気を検知するための手軽な方法が生まれる。今度は電線を長くすると途中で電気が弱まる問題が出現するのだが、1830年頃にはこの問題も解決され(長い電線に電気を通すには、大きな電池一つではなく、小さな多数の電池を繋ぐ必要がある)、いよいよ役者は揃うことになる──。

電信を最初期に商業化したのはクックとホイートストンの二人とされるが(5本の針で文字を指し示すタイプのテレグラフを作ったが、20文字しか示せなかったので6文字のアルファベットがリストラされた)、電信の発明者として世界的に有名なのはアメリカ人のサミュエル・モールスその人だろう。いうまでもなくモールス信号の生みの親で、1836年に独自に電信を開発。その後1838年に最初の実験に成功した。

世界はどう変わったのか

それまでは何しろ馬やら原初テレグラフしかないわけだから、天候にかかわらず電信で数キロ、数百キロが無になると判明したらすぐ大騒ぎになりそうなものだ。だが、世界を一変させるテクノロジーはたいてい最初は激しい懐疑にさらされる。

モールスによる電信も同様で、長年山師のような発明者が失敗してきた歴史もあり、モールスが売り込みをかけてもほとんどの人が懐疑的だった。しかも、原初テレグラフのような「見た目でわかりやすい」通信方法と比べると、電気そのものは視認できないからより詐欺っぽく見える。1842年、モールスがアメリカの議会で資金を提供してもらえるようにプレゼンをしていると、ある下院議員からは「そんなことなら催眠術の研究に支出したほうがマシだ」といわれたという。

しばらく地道なプレゼンと実証実験を続けるモールスだが、状況が大きく変わり始めるのは政府に頼るのではなく私企業に方向転換してからのこと。テレグラフを各都市に敷設し、使用料をとるテレグラフ会社を1845年には立ち上げ、敷設が完了すると販売を開始。ニューヨークとフィラデルフィアの間を繋いだ線は最初の4日間で100ドルを売り上げ(10語で10セントだった)、その後売り上げも熱狂も加速していく。

その後の市井の人々の手のひらの返しっぷりは笑ってしまうほどだ。1845年には怪しい黒魔術扱いだったのが48年には「電信の建設は1ヶ月の間にも何百マイルも増えていく」と書かれている。46年にはワシントンとボルチモア間のわずか40マイル(64km)しか結んでいなかった電線が、4年後には1万2000マイル以上にもわたって敷設されていた。61年には大陸を東西で横断する回線がカリフォルニアまで届く。

それまで東西の海岸の間を結んでいたのは、ポニー・エクスプレスという、ウィリアム”バッファロー・ビル”とか、コディとか、”ポニー・ボブ”ハスラムなどの派手な有名人をかかえ、馬や騎手がリレーをしながら、ミズーリ州セント・ジョセフとサクラメントの間1800マイルを10日間でつなぐ郵便配達システムだけだった。しかしこのルートに沿った電信の回線が開通したとたんにメッセージは瞬時に伝わるようになり、ポニー・エクスプレスは廃業してしまった。

おわりに

電信が普及し、国家間をも結び始めた時、多くの人がこれは世界を一つにする。切り離された半球をつなぎ合わせ、みなが大きな家族の一員であるという気持ちを起こさせる──と壮大な夢が語られるようになったが、現在の世界をみればわかるように、世界を変える発明は、同時に多くの問題を生み出すものでもある。

たとえば、誰もが瞬時にメッセージを送信できる状況を喜んだが、あまりに便利すぎると今度はみながみなこれを使うのでメッセージが混雑し、「これなら歩いて伝えにいったほうがはやい」というほどの状態になってしまう。では、それをどう解決するのか──と、発明が新たな問題を生み、それを解決するためにまた新たな発明が行われる、歴史上何度も起こってきたサイクルがここでも巻き起こされることになる。

「世界を一変させたテクノロジー」が人々の生活にどのような変化を巻き起こすのか。それがどのように受容され、最後は廃れていくのか。その歴史が、この文庫一冊の中にたくさん詰まっている。歴史的な名著なので、ぜひこの機会に手にとって読んでみてね。装幀も素晴らしいんだ、これが。