基本読書

基本的に読書のこととか書く日記ブログです。

数学概念が人類に生まれつきそなわっていないことを示す、数と言語人類学──『数の発明――私たちは数をつくり、数につくられた』

はじめに

『ピダハン──「言語本能」を超える文化と世界観』という、左右や数字の概念を持たない珍しい言語の持ち主であるアマゾンの少数民族について書かれたノンフィクションがある。この本、少数民族の話ながらもそこからチョムスキーの言語本能否定の話や、幸せとは、文化とは、宗教とは、といった話に繋がっていく普遍的な話を展開しており、そのユーモア溢れる筆致もあって世界的に話題になっていった。

今回取り上げたい『数の発明』は、その『ピダハン』の著者ダニエル・L・エヴェレットの息子、ケイレブ・エヴェレットによる著書である。親子揃って言語学者とは凄いが、ケイレブは父親であるダニエルに二人の姉と一緒にピダハン族の村に連れられ、かなりの期間に渡ってピダハンとの交流があったというから、当然かもしれない。というわけで『数の発明』だが、取り扱っていくのはいうまでもなく「数」である。

数の概念は、生まれつき備わっているものではない

我々は当たり前のように数を使う。○○を何個買ってきて、とか今日中にこなさなければいけないタスクがあと○○個、とか。自分の年齢を把握していない人などまずいない。おそらく、ほとんどの人は物心ついたときから当たり前のように数の概念に慣れ親しんでいたから、それが「ない」ことを想像しろと言われても難しい。

が、実は数の概念を持たない人々が存在する。たとえばピダハン族だ。彼らは、1や2といった数量を表す単語を持たず、日常的に数量を指し示したり、数字を認識することがないためか、数量の把握がうまくいかないことがわかっている。実際のところ、数の概念は文化に依存した創造物であり、人間が文化や社会の中で暮らすことでそこのルールを覚えていくように、後天的に身に着けていくものなのだ。

本書『数の発明』は、こうした人間と数の概念の関係性について、数の概念がいつ生まれ、どう定着してきたのか、言語人類学や認知心理学だけでなく、犬やネズミに数の感覚はあるのかを調べる動物行動学。数を認識するとき人間の脳がどう反応しているのかという大脳生理学まで、幅広い分野を横断的に取り扱っていく。

本書でわたしは、「数」という、概念を扱う一連の用具、つまり特定の量を示すための、単語をはじめとする象徴記号こそが、言語を基盤とする進歩の要であり、そうした進歩があったからこそ、わたしたち人間という種が際立っているのであり、それでいてそうした側面はこれまであまりに顧みられてこなかったことを示したい。

正直、先にダニエル・L・エヴェレットの息子という情報を先に知っていたので、ピダハンの話がメインで、数についての内容はたいしたことないんじゃないのと疑っていたのだけれど、そんな疑惑を吹き飛ばすぐらいに数の本として楽しませてくれる。

数の概念がないなんてことがあるのか?

というわけでもう少し具体的に内容を紹介していこうと思うけれど、まず、本当に数の概念がない人々なんているのだろうか? いるとして、それはどういう状況なのか? と疑問に思うかもしれない。我々にとって7という数字が表す意味はあまりにも自明のことだから、7が存在しないということがうまく想像できないのだ。

だが実際には7(というか数字)を持たない言語がいくつか存在する。たとえば、先に話題に出したピダハン族の言語がまさにそうだ。ピダハン語にはぴったりの数を表す語が存在せず、「1」すらない。ただ、量を表す言葉自体は存在する。たとえば、「大きさなり量なりがごく小さい」という表現がある。もう少し大きい量をあらわす言葉もあるが、そちらも強引に翻訳すれば「ふたつかそれぐらい」で、実験によって確かめたところ、人によって3を表す時もあれば2を表すときも、4のときもあるという感じで、「2」ぴったりを示す言葉ではなかったことがわかっている。

そこからわかることは、ピダハン語では数字を持っていないのね、ということだけだ。数字を表す言葉がなくても、数自体は正確に把握していそうなものであるが、ピダハン族に対して量を識別する能力を確かめた実験が存在する(著者の父が関わっている)。実験は数種類あるが、一つは「目の前に置かれた板の上の物と同じ数だけ、物を板の上に並べるよう指示される」実験。二つ目は、「同じように、同じ数並べてもらうが、その際に90度向きを変えてもらう」実験。三つ目は、「並べた物を見せたうえで、一度それを隠し、被験者に同じ数の物を並べてもらう」実験だ。

順々に難易度が上がっているとはいえ、簡単そうな実験である。がしかし、実験を進めていくと、ピダハンたちは量を正しく識別するのに苦労していることがわかってくる。たとえば、元から並べられている物(最初は乾電池が使われた)では、1〜3までの乾電池であれば正しく並べられた。しかし、元の列に4個かそれ以上の乾電池が並ぶようになると、結果に誤りが生じてくる。誤りの生じる割合は、乾電池の数と共に増加していった。もちろん、実験の難易度が上がるほどに誤る割合も増している。

ピダハン族にしかしてないの? そもそもこの手の一回だけ行われた実験って再現性が実はなかったことになりがちじゃない? と疑問が湧いてくるが、この実験、大きく話題になったこともありピダハン族の別の村での再現性もとられ、さらにはピダハン族と同じように厳密な数の言葉を持たない別部族(ムンドゥルク)でも同様の結果が出ている。信憑性の高い実験だ。『そして、そうした数学概念が遺伝的に継承されるのではなく文化的に獲得されるものならば、それはハードウェアとしてのヒトの精神構造のいち部分なのではなく、わたしたちが成長につれて獲得するコンテンツ、いわば後から組み込むアプリケーションのようなものだということになる。』

1〜3

実験で興味深いのは、ピダハンやムンドゥルクの人々も1〜3までの数は正確に扱えているところにある。実は人間は少ない量、1、2、3を、それ以上のもっと多い量、6とか8とかと明確に区別する、生得的な能力を持っているようなのだ。もちろん少ない数の方が把握しやすいのはもちろんのことである。ぱっと目の前に人間の集団が現れて、3人の集団と10人の集団がいたら、数を把握しやすいのは明らかに前者の方だ。

だが、認知心理学や神経科学、そのほか関連領域の実験によって、人間は1から数が増えていくごとにだんだん認識能力が落ちていくのではなく、1、2、3と、それ以上の量には明確な違いがあることがわかってきた。数的な概念の理解は、脳の頭頂間溝(IPS)で盛んに行われるが、ここには「ちょうどぴったり感じ取る特性」と、「ざっくり感じ取る特性」があり、IPSの基本的な神経生理によって、ヒトはごく小さい数までであればとりたてて数学教育を受けなくても、素早く認識できるようなのだ。

ピダハンやムンドゥルクの人々が3までの数字ならば正確に扱えていることも、こうした人間の生得的な能力と関係しているのだろう。

おわりに

数の概念をヒトが後天的に身に着けていくとして、じゃあどのような過程を得て数の概念を身に着けていくの? 赤ちゃんも1〜3は区別できるの? 動物は? など、様々な疑問が湧いてくるが、本書ではそうした疑問一つ一つに丁寧に答えていく。

数を持つ言語のほとんどが10をはじめとする5の倍数を基礎としているが、それは明らかに手の指の本数が5本ずつであることに起因している。我々の体が我々の数の概念を形作り、生み出された数の概念が社会を形作っていく。当たり前のように身の回りにある「数」、それがいかに特別で我々の生活を一変させたものなのか、そしてそれがない世界とはどのようなものなのか。物の見方を捉え直させてくれる一冊だ。