基本読書

基本的に読書のこととか書く日記ブログです。

人間はガジェットではない

ジャロン・ラニアー著。どうでもいいけど帯には「ヴァーチャルリアリティの父」と書かれているが小説家の円城塔先生にTwitterで『バーチャルリアリティの父ってすごいな。無神論者の神、みたいな。』Twitter / EnJoe140で短編中と突っ込まれていた。たしかに凄い……か? それはともかく内容は面白いです。

常識を改めて疑う事を教えてくれるし、フリーのコストが何か、フリー後どうしたらいいかについての具体的な提案はようやく納得できた。

IT用語や単なる推論が混じったりしてよくわからない部分もあったけれど主張は凄くシンプルでわかりやすい。要するにデジタル革命によって「個」が消されていくがいつだってデジタルを使い、何事かを生みだしていくのは「一人の人間だ」ということ。人間は使う道具、仕組みに強く制御される。我々はコンピュータで表現されるものに不当に狭く定義されているのではないか。

たとえばインターネット上で「匿名」であると言う事は、人の悪い部分を浮き彫りにする。特定のコミュニティ上で想像を絶するような悪態をついても、消えてしまえばそれっきりだからだ。もちろん長く使われるIDならばそのID自体に価値が発生するけれども、ネット上では多くの場合そうではない。これも誰かが悪い良いという問題ではなく、匿名の場自体がそのような傾向を生みだす傾向にある、といえる。

さて、著者が危惧しているのは匿名とも関連している。現在多くのIT論者が唱えているような、人間をデータ化して検索できるようにするとか、集合知を使って問題を解決するとか、全てが無料になって広告だけで回る世界といったものを追求した先に何があるか、ということだ。仕組みが人間の定義を狭めてしまうのなら、それらは人間の「個」を消してしまうだろう、と言う。

お金がミュージシャンやジャーナリスト、アーティストではなく広告へと流れているのなら、真実や美よりも人心や市場の操作のほうが社会にとって重要ということになる。コンテンツに価値が認められなければ、人々はしだいに愚かとなり、コンテンツを生みだせなくなってゆく*1。

これこそが「フリー」の代償だ。さらには集団の元に晒される為にいつか必ず法的あるいは政治的な場所にたてこもるかパトロンの保護下に入らねばならなくなるという。しかしその時アーティストは組織に行動を縛られる。まあ今でも都条例だ自主規制だと組織に創造を規制される傾向にあるわけですが──うーん、もっと縛られるぜってことなのかなぁ。

話を戻そう。フリーによって人々はコンテンツ自体に価値が認められなくなって、愚かとなりコンテンツを生みだせなくなってゆく。ならばどうすればいいのか。コンテンツに価値を認めればいい。その為の方法として挙げられているのが、ネルソンのアイデアだ。

もうめんどくさくなってきたので適当にまとめると、誰かが、別の誰かが創作したビットにお金を払い、また払われるようにする、ただそれだけだ。文化的表現は原本のみとし、誰かがアクセスするたびに表現者にお金が入るようにする。

そのような大規模な、全体をカバーするシステムを作れるのは国だけだ。創造者への利益を還元する費用も、同様に国が負担する。

もちろんその為には国民が「創造者への利益を還元する為に税金を使う」ことに対する合意が必要だが(恐ろしく高いハードルのようにも思える)このまま坐してコンテンツが無料になり創造者が死ぬ未来よりかはマシだろうというのだ。

実現可能性という点はこれから詰めていくとして目をつむれば、僕は今のところフリー後の世界の在り方としてこの案が気にいっている。

国以外でも、コンテンツのコピーを完全に防止したり、あるいはコンテンツへとストレスなくお金を払えるシステムが作れればそっちの方がいいにこしたことはないのだけど……。うーんどうなんだろう、ひとつのコンテンツならそれで出来ても、すべてがそうなった時にばらばらなままだとひどいことになる。

現状国に頼らずにコンテンツへとお金を払うシステムはなんとか動画の社長が言っているようにコンテンツをクラウド化して利用券を売る方法しかないとおもうけどこれはこれで入力に手間がかかりすぎ。もし仮に全てのコンテンツがクラウド化したらパスワードとIDを何種類容易しなければいけないだろう。そんな未来は考えたくない。

細かい話は読んで確かめてください。固定観念ぶっ壊されまくりで大変面白いです。

人間はガジェットではない (ハヤカワ新書juice)

人間はガジェットではない (ハヤカワ新書juice)

*1:p.153