日曜日、
海外に住んでいた時を除いて、今年以上に年末感を感じていない年はないのではないか。
毎月1回通っている行きつけの美容室。そこでの会話を機にふと考えた。
「今年やり残したことって何かありますか?」
完全に不意打ちだった。
え?今年やり残したこと??やり残したことなど何もない。このように書くと語弊があるのだけれど、とにかくやらなければいけないことが山のようにあり、今年とか年単位で測るような思考回路が一切なかった。
まるで、目の前のことに直向きに取り組んでいるようで、良い姿勢のように思えるかもしれないけれど、逆に言えばビジョンがないということなのだ。
「今年やりのことって何かありますか?」という質問の後で、
「今年は全く年末感を実感していない」という話になったのだが、まさにそういうことなのだ。先を見据えて、というよりも日々淡々とこなしているから、春だろうが夏だろうが、秋だろうが冬だろうが、関係ないのだ。
忙しいという漢字は、心を亡くすと書くけれど、まさにこの漢字通りなのかもしれない。ただ、個人的には決して悪いことばかりではなかったと思っている。
その一つが、振り返れば実感する「流されてみる」という諦め、または順応だ。
今年と昨年との大きな違いの一つが、会社での交友関係の幅である。昨年と比べて数倍ほど飲み会に行く機会が増えた。もしかしたら、二桁レベルで増えているかもしれない。
僕は、根本では一人が好きだし、一人の時間を大切にしたいと思っている人である。だから、前職の時はほとんど飲み会には参加しなかったし、今の会社でも昨年までは片手で数える程度しか飲み会に参加しなかった。
それが今年の後半くらいから毎月、もしかしたら毎週だれかと飲んでいる。そしてそういう時はだいたい終電だ。昔の僕なら考えられない。明日のことを考えて、お酒も調整するし、22時にはお開きにしたいところだったと思う。
でも、もうちょっと開いた自分になりたい、流されてみようかなと思ってからは、凝り固まっていた何かが瓦解した感じがした。
僕の根っこにある心の部分は失われてしまったかもしれないけれど、こびれついていた垢みたいなものも同時に流していってくれたような感じだ。
こういう感じで周りに流されるなら、それはそれでいいと、僕は思っている。でも、それと同時に会社や組織にもだいぶ流されたというか、コントロールされたようなそんな1年だったと改めて思う。
人にも会社にも時流にも流されて、ストレスは減ったけど、別のストレスが増える。自分を見つめる機会は減ったけれど、他者を見つめる機会は増えた。
良し悪しはあるけれど、そうやって日々が一瞬で流れていくから、年末感も感じないのだろうし、「これを達成したい」という自我で動いていないから、やり残したこともないのだろう。
人生80年といわれている中で、こういう1年があっても別に良いと思う(というか、そう思ってないとやってらんないよね)。
この文章を書きながら今年を振り返ることで、やっと年末感を感じている僕がいることに気が付いた。