まどかの救済――あるいは背中のまがったこびとの話

 2月のエントリ「約束された救済――『魔法少女まどか☆マギカ』奪還論」は、本編があのような結末をむかえたこともあって、大きな反響を呼んだ。もちろん、あのエントリは予測でも願望でもなく、魔法少女の理念をただ著しただけにすぎない。しかし、内心の予想以上にあのエントリとぴったりくる結末だったのをみて、本人が一番驚いているとともに、ベンヤミンと『まどか☆マギカ』の相性はよいということを、ますます確信するに至った。
 ところで、人気番組終了の常なのだが、最終回以後、様々な感想がネット上に飛び交っている。満足した者、満足してない者、それぞれいるだろう。あの結末は納得がいかない、という人がいるのはあたりまえのことである。ひとにはそれぞれ価値基準があるのだから。しかし、あのわかりやすい最終回を見て、なお見当違いな解釈をおこなっている人びとも多く見られる。それはたぶんにドグマ的であり、「誰かが幸福になるには誰かが不幸にならなければいけない」という信仰の強さを改めて感じさせられた。もちろん、『まどか☆マギカ』はそのような話ではないのである。
 このエントリは、2月のエントリの補遺として読んでほしいが、じっさいの例を多く取り入れたことで、より分かりやすくなっているとおもう。また、この着想の少なからぬ部分は、友人である常野雄次郎に負っている。このエントリの補遺、つまり補遺の補遺として、「テラ豚丼祭りと「自由への恐怖」」、「反自由党は「ビラ配布→逮捕→有罪」を歓迎する――はてなとmixiと秋葉原グアンタナモ天国の比較自由論」、「ゆめ」あたりを参照していただけると、より問題意識が鮮明になると思う。たとえば、「テラ豚丼」エントリを読んでいただけると、(しばしば混同されている)まどマギの結末と単なる自己犠牲称揚の物語との差異が鮮明になるだろう。
 
 ベンヤミンの得意とするモチーフに、「背中のまがったこびと」の話がある。そのこびとは歴史的唯物論という人形を操っている、と彼は『歴史哲学テーゼ』の冒頭で述べる。そして、わたしたちがそのこびとを使いこなすことができれば、歴史的唯物論は常に勝利することになっているのだ。
 『まどか☆マギカ』の魔法少女すべては、つねにすでに救済されている。しかしその救済は、わたしたちがこのこびとをうまく使いこなす限りにおいて正しく見通すことができる。むろん、わたしたちは『まどか☆マギカ』の物語に対して、自身の価値観において批判を加えることはできる。しかし、この物語をひとつのアレゴリーとして読むならば、その解釈はおのずと一つに収束するはずであると思われる。
 まどかの願いはただ一点、あらゆる魔女の消滅である。それ以上でも以下でもない。まどかは、すべての魔女が消滅した世界の運命に責任を負わない。世界の摂理が――それはしばしば「作者」と呼ばれる――魔女のかわりに魔獣を生み出したとしても、それはまどかが感知するところではない。この点で、まどかを全知全能の神、世界の統治者に模した解釈は間違っている。確かに、まどかを神のアナロジーで捉えることは、その後の説明を容易にする。しかし、その現れは世界の構築者としての神ではなく、救い主としてのそれであって、あの結末を不十分であるとする不満の多くは、この混同にあるのである。個人的には、まどかは「神」というよりも「英雄」のモチーフが適当ではないかと考えている。
 まどかは、ホロコーストの悲惨を知らないし、非正規雇用の悲惨も知らない。両親の愛を存分に受けて育ち、またさやかのように失恋の痛みもない。彼女がその眼で見たのは、魔法少女の悲惨であり、魔女の悲惨である。キュウべえは、それが歴史の最善であると彼女に教える。人類の進歩は彼女たちの犠牲によって達成されたのであり、そのような犠牲は世の中にいくらでもある。もしその悲惨を許せないとするならば、かのじょは牛や豚を食べるべきではない。
 キュウべえが試みたのは、自分自身の無力さをまどかに対して刻印づけることにあったのであり、彼女の内面に一つの法を措定することである。それが、神話的暴力とよばれるものの力なのである。キュウべえの口から語られる人類の歴史は、キュウべえによって因果付けられた道徳物語としての神話であり、それまでの法の説明であるとともに新たな法を打ち立てるものでもある。この法は、たとえばエネルギーなんちゃらの法則といったものとはなんら関係はない。
 だが、まどかは願いによってその法を破壊するのである。彼女は、世界の摂理に対して考えるのをやめる。そして、目の前の魔法少女と魔女の悲惨だけを見る。目の前の悲惨は悲惨であるがゆえに、救済しなければいけない。彼女は魔法少女と魔女を救いたかったのであり、そしてやりたかったことをやったのである。母親やほむらの制止があったとしても。そして、かのじょたちがどれだけ自分を愛しているか知っていたとしても。まどかは自分自身以外のものを言い訳にせずに、自分のやりたいことをやるのである。かのじょは、どのようなダイタイアンも提示していない。まどかの願いが、それ以外の世界の摂理に関係していたという説には一切根拠がない。
 なぜまどかだけがその破壊を行いえたのかはわからない。ほむらによって溜め込まれたまどかの魔法少女としての力、まどかの願いの過不足なき適切さ、様々な仮定をたてることができるが、実際のところは不明なのだ。しかし、現実にまどかは破壊を行い得たのであり、その時間と空間を超越した破壊が、すべての魔法少女をつねにすでに救済するのである。
 
 1960年代の公民権運動の発端は、ローザ・パークスの逮捕によるバスボイコット運動にあることはよく知られている。1955年の12月、ローザはバスの白人優先席に座った。しばらくすると白人が乗ってきたので運転手は彼女に立つように命じた。しかし、ローザは運転手の命令に従わず、警察に逮捕されることになった。
 今日では、ローザの行為は正義に基づく英雄的な抵抗であるということになっている。だが、それはいまだからこそいえることだ。1950年代の当時では、彼女はその場でリンチにあってもおかしくはなかった。じっさいのところ、ローザと同じような行動をして掴まった黒人たちはたくさんいて、かれらかのじょらは、その抵抗が(部分的には裁判で勝利するなどのこともあったものの)全国的な運動に結びつくこともなく、ただ酷い目にあっただけで終わっている。ローザ・パークスの名は教科書に載っている。しかし、その無数のひとびとの名前は、今ではほとんどの人は知る事がない。
 いま、わたしたちが1950年代当時にいるとする。ある黒人の友人が、目の前で差別に対して勇気ある抵抗を試みたとき、わたしたちはかれかのじょにどのような言葉をかけるだろうか?わたしたちは、その抵抗に何の意味もないことを知っている。そして、かれかのじょらはその代償として死をも覚悟しなければいけないことを知っている。常識的な判断であれば、その黒人の行為は無謀であり、バカげたことであり、その黒人自身のことを想うならば、一刻もはやく止めさせなければいけない。
 しかし、2011年のいまでは、わたしたちは常識的に有り得ないことが起きたことをしっている。一人の黒人の無謀な抵抗が、公民権法を制定させたことを知っている。つい10年前まではSFの世界でしか有り得なかった黒人の大統領が今誕生していることを知っている。もちろん、オバマは悪いことをたくさんしている。イスラエルのパレスチナ占領を支援し、沖縄に基地を押し付けている。そして、オバマが大統領になったからといって、黒人の生活環境は白人にくらべていまだ低いままである。とはいえ、ありえないはずのことがありえている。そのことはゆるぎない事実である。
 「今にして思えば公民権運動によってアメリカ社会が変わるのは必然だった。しかしその必然性は、人間の自由によって作り出されたものである。」と常野さんは言う*1。ローザ・パークスは、別に自分がボコボコにされて殺される可能性について分かっていなかったわけではない。ただ、「屈服させられるのがイヤだった」と彼女は言っている。彼女は、その自由を行使したのだ。
 ローザの行為が歴史を動かしたのはいまは誰もが知っている。では、歴史を動かさなかった無数のひとびとについては?かれらかのじょらの抵抗は無駄だった。しかし、「かれらかのじょらの抵抗は無駄だった」とわたしが言及した時点で、かれらかのじょらの抵抗もやはり、わたしたちの記憶に刻印づけられるのではないか?だいいち、このエピソードだって、わたしがどこかの本で読んだことの引用であり、それはもっと多くの人に知られているのだ。ローザ・パークスが歴史を動かすことによって、無名の抵抗者たちは歴史の廃墟から姿を現している。しかし、それはかれらが抵抗を行った時点で、つねにすでに約束されていたものなのである――わたしたちが、希望について確信している限りは。
 
 まどかが救済したのは、人間の「自由」である。魔法少女たちは、その願いが自分自身や周囲をかえって傷つけることになると知っていたかもしれない。しかし、それでも願わずにはいられなかった。自分のために、あるいは、誰かのために。そのことによってたとえ、運命の神話的暴力が彼女らの中にソウル・ジェムを植えつけようとも――つまり、法を強制的に挿入しようとも――、「願う」という崇高な自由までは奪えないのだ。ゆえに、魔法少女の願いが、絶望によって魔女へと転落するその瞬間、まどかはそれを掠め取る。あの『ファウスト』の最後の場面、天使たちがファウストの魂をメフィストフェレスから掠め取ったように。
 『ファウスト』における魂の強奪が契約の破壊として唐突に行われたように、まどかの救済も魔法少女-魔女システムという法の破壊として行われている。しかし、この救済は時間と空間を超越しているがゆえに、「いつ」起ったのかを言うことはできない。救済はつねにすでに起っている。ゆえに、魔法少女たちはあらかじめ救済されていたのである。
 
 巴マミの台詞で3話のタイトルでもある「もう何も怖くない」は、その後の彼女が辿った運命から、アイロニカルな言葉として周知されている。しかし、最終回を経た今では、この言葉は別の意味をともなってくる。ふたたび公民権運動から引用すれば、それはマーティー・ルーサー・キングのことばと比較されるべきだろう*2。

 誰でもそうであるように、私は長生きがしたい。長寿には価値がある。しかし今や私はそれには関心がない。私はただ神の意思を行いたい。そして神は私が山を登ることを許された。そして私は見渡した。そして私は<約束の地>を見た。私は皆さんと共にそこに行くことはできないかもしれない。しかし今宵、皆さんには知ってもらいたい。我々は人民として<約束の地>に到達するのだということを!
 だから今宵、私は幸福である。私は何の心配もしていない。私は誰も恐れてはいない。我が目は主の到来の栄光を見たのだ!

じっさい、この演説を行った次の日にキングは暗殺されるのであるから、しばしばこの演説もアイロニカルな意味に解釈されることがある。だが、それが問題なのではない。常野さんはこう言っている。

ここでキング牧師は「私は山の頂に立ったから」もう何も恐れていない、と言っている。「我が目は主の到来の栄光を見たのだ」と。今日からすると、キング牧師はアメリカ史上最も偉い人、ということになってるから、それを予知させるなんて神様はスゴイね、とも思えるし、キングがブッシュにも祭り上げられる一方で大半の黒人の状態はむしろ悪化してるから結局大したことなかったとも思えるかもしれない。しかしキング牧師は何も形式的な差別が解消される未来を予知しようとしたのではないと思う。
 そうではなくて、彼は確信したのだ。私はタバコが吸いたいのだと。「主の到来の栄光を見た」というのはそういうことだと思う。

巴マミの台詞は、まどかが魔法少女になると決意し、自分が一人ではないと確信したときのものであり、はじめて自分が魔法少女であることを肯定したときにおいて発せられた。それはつまり彼女がまどかの自由を確信したときであり、自分自身の自由をも確信した瞬間である。もちろん、まどかが順調に魔法少女として成長し、自分がそれまで死なない保障など彼女にはなかった(じっさい、次の瞬間には死ぬのであるから)。だが、彼女は確信したのである。まどかの未来を。ゆえに、「もう何も怖くない」のである。そして、すべての魔法少女があらかじめ救済されていたのであるから、これを二重の意味において、つまり救済が約束されているがゆえに「もう何も怖くない」のだとも解釈するべきである。
 
 冒頭にあげたように、『まどか☆マギカ』はアレゴリーとして読まれるべきである。それは、あらゆる時代、あらゆる場所における、人間の自由についてのアレゴリーである。法に対して新たな法を提示するのではなく、ただ自由を行使すること――つまり法にたいして反逆することはわたしたちに常に開かれている。もし、魔獣によって悲惨が生み出されているとしても、救済が行われた地点から見れば、その悲惨はあらかじめ救済されていたことになるだろう。そしてその視点は、まどかの救済とわれわれの視点が接続することによって、捉えることができるのである。

ユダヤ人には、未来を探しもとめることは禁じられていた。その一方で、立法と祈祷とが、かれらに回想を教えている。回想が、予言者に教示を仰ぐひとびとを捕えている未来という罠から、かれらを救いだす。とはいえ、ユダヤ人にとって、未来は均質で空虚な時間でもなかった。未来のあらゆる瞬間は、そこをとおってメシアが出現する可能性のある、小さな門だったのである。

ベンヤミンは亡命生活の末ナチズムに追い詰められ、1940年にスペイン国境沿いの村で自殺した。死の直前にアドルノの元に草稿が送られ、かれのもとで出版された『歴史哲学テーゼ』の最後を、ベンヤミンはこの言葉で締めくくっている。
 わたしたちは、回想のなかでちらりと現れる過去のイメージをとらえる。そのなかに「背中のまがったこびと」はいるのである。しかし、わたしたちはまだ、あらゆる過去を引用できない。だが、一瞬一瞬に含まれるかすかな救済の痕跡に、奇跡の可能性を見出す。その無数の痕跡のひとつが、もしかしたらまどかの救済であったかもしれない。わたしたちがそれを確信するならば。
 
参考文献