民主主義2.0とカール・シュミットの「民主主義」

 東浩紀の「民主主義2.0」の議論は、実は朝生を見たぐらいであとは断片的にしか追いかけてないのだけれど、情報をある程度総合するに、彼はルソーの直接民主主義を引用しながらこの新しい「民主主義」のあり方を説明しているらしい。しかし、ぼくにはもう一人、彼の議論には隠された登場人物がいるような気がしてならない。それは、カール・シュミットである。東浩紀がシュミットを読んでいることはすでに明らかになっている。そして、シュミットもルソーを引用して「民主主義」を説明するのだ。
 1923年に出された『現代議会主義の精神史的地位』において、シュミットはルソーの「一般意志」について次のように述べている。「人民は元来決して具体的な内容に協賛を与えるのではなく、抽象的に、投票の結果現れる一般意志に、協賛を与えるのである。・・・この結果が個々人の投票の内容と誤っているならば、評決に敗れた者は、彼が一般意志の内容について誤った見方をしていたということになる*1」「ルソーの考えた一般意志は、本当のところは、同質性である。これこそ真に徹底した民主主義である*2」。シュミットが注目するのは、「一般意志」という概念が持つフォルム(形式)である。「民主主義」においては、個々の国民は自らの意志とは異なる法律に賛同をすることもあるが、それは法律が「一般意志」の結果だからである。「一般意志」とは単なる多数意見ではなく、国民の意志そのものに他ならない。「一般意志」は投票の内容においてではなく、フォルムにおいて国民の意志を「代表(Repräsentation)」*3する。国民は、そのつど表決にかけられる個々の法律それ自体に同意しているのではなく、「一般意志」という「上からの」フォルムそのものに同意するのだ。
 投票はシュミットにおいて技術的な問題にすぎない。彼にとっては、いかにして国民意志が「代表」されるかというそのフォルムこそが問題であって、その方法は投票でなくてもよい。それは「拍手と喝采」による独裁でも構わないのである。民主主義はあらゆる政治体制と結びつく*4とシュミットは言っている。民主主義は軍国主義と平和主義、自由主義と絶対主義、中央集権と地方分権、進歩と反動、いずれにもなりうる。しかしこのような「民主主義」のある意味での無節操さは、彼にとって必ずしも否定的な事柄ではなかったのである。このことは、彼の「政治神学」によって理解されうる。「現代国家理論の重要概念は、すべて世俗化された神学概念である*5」。じっさい、シュミットの考える「民主主義」は、彼の神学概念と対比可能である。
 1925年の「ローマ・カトリックと政治形態」において、シュミットはあらゆる対立物を自らのうちに含んでいる「反対物の複合体(complexio oppositorum)」としてのローマ・カトリック教会は、「代表(Repräsentation)」の原則を厳格に適用することに基づいているという*6。ローマ・カトリック教会はキリスト教共同体を「代表」する。もちろん「代表」といっても、たとえば普通選挙で選ばれていることを意味するのではない。教会は、受肉化したキリストを「代表」し、それによってキリスト教共同体を「上から(auf oben)」「代表」するのである。言い換えれば、教会はフォルムにおいてキリスト教共同体を「代表」しているのである。
 この「代表」概念の適用に伴うローマ・カトリック教会のフォルムとしての完全性が、「不可謬な」教皇を頂点とする教会の位階秩序に権威をあたえる。教会は「人類国家(civitas humana)」を「代表」していることによって、教会の「政治」的思考は、近代の「経済」または「技術」的思考に優越するのである。シュミットはこの教会のモデルを、彼の考える「民主主義」にも適用可能だとみていた。教会がキリスト教共同体を「代表」しているように、国家は国民の意思を「代表」する。そして、その「代表」しているというフォルムが問題なのである。投票の結果を国民意志とよぶか、「拍手と喝采」による独裁を国民意志とよぶか、その手続きは重要ではない。「国民意思は、当然つねに、国民意思である。意思がどのようにして形成されるのか、ということが重要なのである*7」。シュミットは後年、選挙で選ばれた大統領の「独裁」によってワイマール国家を救い出そうとするが、彼は必ずしも「大統領の独裁」という手続きを自身の政治思想の根源に置いていたのではなく、「民主主義」における「代表」の原則を貫徹するために、「独裁」という手続きを利用したにすぎない。彼にとって重要なのは、フォルムがフォルムであることに伴う権威性なのである。
 シュミットと東浩紀が決定的に異なるのは、シュミットが徹底して「政治的なもの」の救出に取り組んだのに対して、東浩紀は、(少なくとも表面的には)「政治」の終わる世界を志向していることである*8。にもかかわらず、「代表」の実質を希求するシュミットの姿勢は、実は東浩紀にも共通するのではないか、と思う。kihamuさんは、東浩紀のポストモダン的な民主主義2.0は、「代表政治」の消滅を希求しているのではないか、という指摘をしている*9。しかしそれとは逆に、ぼくが東浩紀の口ぶりから感じるのは、従来の「代表政治」ではもはや不可能になった「代表」の原則を、「技術」によって復活させようという志向である。
 東浩紀は朝生で、現代の議会がもはや真に国民を「代表」する機関ではなくなったことと、それに伴って政治が「バラマキ政治」と化しているということを指摘していた。この昨今の政治にたいする批判的見解は実は、シュミットの議会制民主主義批判に驚くほど共通している。シュミットは、国民を「代表」していることになっている政党は実質、各利益団体の代表にすぎず、あらゆることは議会の討論の前に利害調整の場で決まっており、議会は「控えの間」でしかない*10、と指摘する。このような国家は、各利益団体に平等に配慮するために、結局はバラマキ政治を行わなければならず、ゆえに国民のあらゆる私的生活に干渉する「弱い全体国家」となる*11。
 この議会制民主主義のような見せかけの「代表政治」ではなく、実質がともなう「代表政治」を志向するのがシュミットの立場なのであるが、東浩紀も同様に「代表」つまり、形成された国民(住民)の「意志」を重要視しているようにみえる。その手段としてSNSを用いる、などの思い切った発言によって、その方法論にばかり注目が集まっているが、むしろ彼の根底にあるのはシュミットと同様に、従来の手段がもはや通用せず、このままではカタストロフへと至りかねない現代社会への問題意識と、何らかの新たな方法によって今ある社会を救出しようとする、保守的な革新主義、あるいは革新的な保守主義にたいする信念なのではないか。いかなる手段によってそれが達成されるかは二次的な問題にすぎない。東浩紀は、自身の考え方はむしろ「民主主義2.0」ではなく「一般意志2.0」という言い方がふさわしいと主張している*12。この講演で彼は、「一般意志」はいままで討議によって形成されると考えられてきたが、それは誤りであって、「民主主義2.0」こそが本当の「一般意志」を形成できるといっているようにみえる。彼は、「一般意志」という概念を、従来の民主政治のなかから救出し、それを基盤として新しい「民主主義」を打ち立てようとする(少なくとも、その「民主主義」に思想的な根拠を与えようとする)。むしろ、先に「一般意志」があるがゆえに、その方法について、従来の討議民主主義・議会制民主主義にこだわる必要はないと考えているのだ。この点で、東浩紀の「一般意志」概念は政治神学的である。「一般意志」は、国民を「上から代表」しているのである。
 シュミットの「独裁」が、それが国民意志を「代表」しているがゆえに主権的権力の行使も可能にしているのと同じように、東浩紀の「一般意志」も、それがどのような手段でつくられるかに関わらず、それが「一般意志」であるがゆえに、それ自体が絶大な権限を行使するという可能性を秘めている。だが、シュミットが前提にしていたのは、国民の「同質性」*13である。国民が根源的に「同質的」であるがゆえに(それは、後の『国家・運動・民族』にて、ナチスの人種政策と結びつくことによって「同種牲」へと発展する)、「国民の意志」は「代表」されることができるのである。東浩紀が言う「集合知」は、「差異の集合」であると認識されている。しかし、あらゆる差異において対立を知らない「反対物の複合体」は、まさにそれが「同質的」なものとして「代表」されることによって成立する。「集合知」においても、それが「一般意志」として権力を行使しうるものとして措定されるためには、やはりその根本には何らかの「同質性」を前提としなければ、つまり、その集団が潜在的に一般意志を形成しうる可能性の根拠を措定しなければならないのではないか?と思う。もちろん、「同質性」は「異質なもの」の排除を前提として成り立っている。そして、その「同質なもの」と「異質なもの」の区別がまさに「政治的なもの」である。シュミットは少なくともそれについては自覚的であったが、東浩紀はそうではない。しかし、「政治的なもの」を抜きにして、「民主主義2.0」は果たして考えられうるのであろうか。それはもう克服した、といいながら、実はまだシュミットの手のひらの上で戯れていただけ、という可能性も十分ありうるのである。
「上から代表」する「一般意志」↓

*1:Carl Schmitt, Die geistesgeschichtliche Lage des heutigen Parlamentarismus, Duncker&Humbolt, 1985, S.35(稲葉素之訳『現代議会主義の精神的地位』みすず書房1972,p36)

*2:Ebd.,S.21(同前p22)

*3:和仁陽は、このRepräsentationの訳に「再-現前」という造語を当てている。(『教会・公法学・国家―初期カール・シュミットの公法学』東京大学出版会1990)

*4:Ebd.,S.34(同前p35)

*5:Carl Schmitt, Politische Theologie, Duncker&Humbolt, 1934, S.49(田中浩,原田武雄訳『政治神学』未来社1971年p49)

*6:Carl Schmitt, Römischer Katholizismus und politische Form, Klett-Cotta, 1984, S.14(小林公訳「ローマカトリック教会と政治形態」『カール・シュミット著作集(1)』慈学社出版2007,p134)

*7:Die geistesgeschichtliche Lage des heutigen Parlamentarismus, S.35(『現代議会主義の精神的地位』p38)

*8:http://d.hatena.ne.jp/nitar/20081205/p1では「我々は政治がなくてもいいではないか」という発言をしている

*9:「ポストモダンが要請する新たな政治パラダイム――Stakeholder Democracyという解」http://d.hatena.ne.jp/kihamu/20091024/p1

*10:カール・シュミット,樋口陽一訳「議会主義と現代の大衆民主主義との対立」『カール・シュミット著作集(1)』慈学社出版2007,p163

*11:Carl Schmitt, Legalität und Legitimität, Verfassungsrechtliche Aufsätze aus 1924-1954, Duncker&Humbolt, 1958, S.340

*12:「東浩紀、一般意志2.0を語る@ウェブ学会」http://www.nicovideo.jp/watch/sm9076555

*13:Die geistesgeschichtliche Lage des heutigen Parlamentarismus, S.13(『現代議会主義の精神的地位』p14)