法華狼の日記

他名義は“ほっけ”等。主な話題は、アニメやネットや歴史認識の感想。ときどき著名人は敬称略。

『呪怨:呪いの家』

 1988年、呪いの家があるとTV番組で知った心霊研究家は、関連すると思われるさまざまな時代の事件を追っていく。一方、かつて呪いの家にかかわらされた少女は、時代をへるごとに社会の底へと落ちていく……


 2020年にネットフリックスで配信開始された全6話のホラードラマ。シリーズ最初のVシネマ版で監修をつとめた高橋洋と*1、プロデューサーとしてシリーズにかかわってきた一瀬隆重による共同脚本で、監督はホラーとのかかわりが薄そうな三宅唱。

 シリーズを作った清水崇が完全にクレジットから外れ、良くも悪くもプロデューサーとしてJホラーを牽引した一瀬の作品になっている。かつて一瀬が『帝都大戦』で組んだスクリーミング・マッド・ジョージを招いて、予想以上の特殊メイクの見せ場をつくっていた。


 連続ドラマとして見ると、各話30分以内で全6話と短くて明確な結末もない小品。人気が出ればいくらでも延長できそうだが、どこまで行っても雰囲気が変わらなくて飽きそうなので、いったん終えたのは悪くない判断だろう。
 さすがにネットフリックスの実写ドラマらしく予算のなさは感じさせない。他のネットフリックス作品と比べれば低予算だろうとは思うが、隙を感じさせる描写がなく細部まで必要なリソースが足りている。同じ一瀬共同脚本のシリーズ映画2作品*2と違って、セットや特殊メイクの質感に軽さがないし、繁華街などのロケも他のドラマや映画で見かけない自然な場所を選べている。明らかにVFXな人体消失ですら、冷めないだけの最低限のクオリティがある。


 ジャンルとしてはオカルトホラーよりも人怖ホラーらしい。ネットフリックスのドラマでいうと、リメイクや実写化路線ではなく、過激で陰惨な実録路線。不倫くらいはあったがVシネマにしてはエロティックな描写は少なかった原典と違って、社会の底辺のレイプやセックスワークが執拗に描かれる。そうした陰惨な群像劇を『呪怨』のプロットに当てはめ、オカルトなフレーバーをまぶしている。
 まず物語が『呪怨』のモデルになった実話が存在するかのような説明ではじまり、1980年代から1990年代の現実にあった凶悪事件をとりこんでいく。もちろん『呪怨』らしく、一軒家がすべての中心にあるし、オカルティックな描写も多数あるし、時間や行動がパズルのようにつながる構成もあるが、今回は狂気におちいってもおかしくないような状況で幻覚を見たと解釈できる描写が多い。
 カヤコやトシオを思わせるキャラクターは登場するが、必ずしも直接的な恐怖をもたらさないところは独特。それどころか理不尽に呪いが伝播していく過去のシリーズと対比的に、幽霊的な存在がしばしば登場人物を救っているようにすら見える。それが恐怖や惨劇が連続しながらも不思議な後味の良さを生んでいた。
 恐怖演出は本家清水の『ミンナのウタ』*3のほうが良かったが、そもそも過去シリーズとくらべて怖がらせることに全力をつくしていないので、全体の調和がとれていて問題を感じさせない。明らかな無駄や滑った描写もない。女性の悲惨さな描写を見せ場にしたり、現実の凶悪事件の背景にオカルトをもってくるホラーの定型に目をつぶれば、シリーズのなかでは特異的に完成度の高い作品だと思った。

*1:ただしオーディオコメンタリーなどによると、あくまで『リング』の人気にあやかって宣伝するためのクレジットに近かったようだ。 『呪怨 ビデオオリジナル版』 - 法華狼の日記

*2:『呪怨 終わりの始まり』 - 法華狼の日記、『呪怨 ザ・ファイナル』 - 法華狼の日記

*3:『ミンナのウタ』 - 法華狼の日記

『NHK少年ドラマシリーズ なぞの転校生』

 東京郊外で団地に住み、中学校にかよう岩田広一と、おさななじみの香川みどり。そんなふたりの前に、山沢典夫という謎めいた少年があらわれる。転校生として特異な優秀さを見せる山沢に、岩田は興味をいだく。山沢と団地の奇妙な同居者たちは、違う次元の戦争から逃れてきていたのだが……


 学習誌に連載された眉村卓のジュブナイルSFを、1975年にNHKの少年ドラマシリーズ枠で全10話でドラマ化。原作は未読で、主人公の性別などの設定を変更した1998年の映画版を視聴したことがあるのみ。

 放送された時代は多くの番組を磁気テープに録画して放送し、終われば別番組を磁気テープに上書きして再利用していた。そうして多くのドラマのマスターソースが失われていったなかで、全話が視聴者の録画で発掘できた数少ない作品のひとつ。
 リマスターなどされていないのか、VHSビデオ録画ならではの画面の上下端にゆがみがあるまま収録されている。おそらく補正されているのは開始と終了の青地に白字のテロップのみ。とはいえ映像の粗さも時代的な記録としての面白味はある。
 映像面ではNHKドラマらしく露骨なまでにスタジオセットを多用。あまりセットが広くなく、ホリゾントが近いので、舞台劇的な印象すらある。団地の外観でミニチュアも使用している。台詞の多い会話劇であるところも朗読重視の舞台劇のよう。あまり好きではないが、運動会のグラウンドまでセットで描写していることには驚くし、全体が一貫した演出意図で制作されているので方向性を理解した後は安定して楽しめる。


 物語はこれで終わりかと思ったところで変転していく。たとえば第6話で終了しても、あるいは第8話の前半で終了しても物語としてはまとまっただろう。しかし物語は、よるべなき「次元ジプシー」のいきつくはてまで描き切り、現実に接続して終わった。視聴しながら「次元ジプシー」は難民のメタファーにも感じられたが、あくまで当時の作り手は核戦争への恐怖を主軸にしているのだろう。
 面白いのが転校生のヤマザワのキャラクターで、一見すると感情のない典型的なSF異邦人のようで、主人公が見ていない場面では序盤からたびたび感情をあらわにする。あくまで周囲と壁をつくっているだけなのだ。そんなヤマザワと主人公は隣人から少しずつ距離をちぢめていき、友情をふかめていく。
 とはいえ、おさななじみの少女がヤマザワにあわい思慕をいだく序盤の描写からは、さすがに三角関係のドラマが展開するかと思った。事実、DVDに収録された特典映像の特別番組でエピローグを切った最終回を見ると、ボーイミーツガールの物語であったかのような印象になる。しかし実際に本編を全話見ると、少女はほとんどドラマの前面に出ることはなく、出番もほとんどなく、後半の別離からようやく主人公と転校生のドラマにわりこむだけ。あくまで主人公と転校生が関係をふかめるボーイミーツボーイが中心の物語だった。映画版がガールミーツガールになった理由が少しわかる。

北朝鮮の政治外交軍事を研究している専門家の宮本悟氏、大統領選挙の実現と大正デモクラシーを同等の民主化のように主張

 共和国どころか議会主義的君主国ですらなかった大日本帝国と、大統領を直接選挙で選べるようにした大韓民国が同じように民主化されているとはいえまい。


韓国が民主化したのは1987年で、日本で最初の民主化は1910年代の大正デモクラシーとされているから約80年の差があるんだが、日本の民主主義の経験が浅いというのは、自分が浅学なだけだよ。😝


大正デモクラシーと1987年を比べているのもよくわからんし、1960年(4月革命)は無かったことになっているのかしら。

 もちろん大正デモクラシーも当時なりに意義のあった民主化の動きであったとは思うが、民主化運動と民主化達成を混同させるレトリックは感心しない。皮肉のつもりであっても成立していまい。
 それなりの規模で社会を動かした運動を数えていいならば、韓国にしても1987年よりも前に複数の「民主化」があっただろう。日韓にかぎらず、どこの社会でも体制が変わる以前に体制を変えようと動いていた民衆がいたはずだ。


 ちなみに宮本氏は自民党の裏金問題を軽視するように、日本人は政策で投票しないという見解を語っていたことがある。
北朝鮮の政治外交軍事を研究している専門家の宮本悟氏のツイートをいくつかメモ - 法華狼の日記

政策で投票する日本人ってどれくらいいるのよ?あんまり聞いたことない。せいぜいイメージや印象で決めているんじゃない?だから裏金とか烙印的なメッセージが効いている。これは政策には何の関係もないし。

権力者の問題よりも、それを批判する市民の態度ばかり気にするという意味では、宮本氏にも一貫性があるといえるかもしれない。

 しかし宮本氏の主観が正しいならば、それこそ日本にまだまだ民主主義は根づいていないように見える。もちろんこれは皮肉だが。

『わんだふるぷりきゅあ!』第49話 あなたの声

 スバルの目的だったガオウの復活は、ダイヤモンドユニコーンと鏡石の力をあわせても不可能だった。怒りに打ち震えるスバルはニコダイヤの力をとりこみ、巨大化して人々を滅ぼそうとする。しかしスバルが本当に怒っていたのは……


 成田良美シリーズ構成の脚本に、畑野森生演出、玖遠らぎ作画監督で映像は充実していた。巨大人狼化したスバルの遠距離攻撃は空間をたっぷりつかって板野サーカスチックで、緑化した風景の足元に横断歩道などがあって不穏感に満ちている。キャラクターの表情も細かい。
 植物に飲みこまれるのがアニマルタウンというスケールは小さいが、ラスボスと思われたスバルの心こそがテーマだったと明かされ、ストーリーとビジュアルのサイズ感が一致している。


 スバルの心情が少しずつ明かされるなかで、今作のさまざまなエピソードが効いてくる構成も悪くなかった。
 まずよくある問題として、自然を守る動機があるはずの敵が人間を攻撃するために自然をも破壊する描写になることがある。しかしスバルは攻撃がキュアワンダフルに当たって、子犬の姿にもどって倒れただけで攻撃の手を止め、狂乱をはじめる。ここまで心が弱くも優しいラスボスは他の作品でもなかなか見たことがないし、スバルが物語の都合で動いている感じにもならない。
 そしてスバルが怒りを向けたかった人間は、オオカミや自身を迫害した人間よりも、自分自身だったと明かされた。ニコダイヤをとりこむ場面が、まるで切腹のように表現されていたのは意図的な演出だろう*1。

巨大なニコダイヤをスバルが両手にかかえて、自身の腹部につきたてる姿

 もちろん、これは絶滅動物の人間に対する復讐というガオウ登場当初に提示された争点を避けたといわざるをえない。しかしここ数話を見ていて、殺された動物側が殺した人間側をうらんでいないと語る展開になりかねないことを懸念していた。そこで絶滅動物はスバルという個人をうらんでいないという文脈にしたことで、あくまで守れなかった人間側をうらんでいないという展開になった。あつかえかねない争点の回避ではあるが、最低限の誠実さは感じられた。
 こむぎがスバルにガオウの言葉をつたえる展開も、ペットロスの痛みを描くにあたって獣の心情を人間につたえた第44話*2のように、人間に変身できるこむぎが媒介になり、伝言のもどかしさが本来はコミュニケーションできない関係なのだと実感させる。

『ペリリュー 楽園のゲルニカ』のアニメ化が、シンエイ動画による劇場作品化と発表

 毎年『ドラえもん』と『クレヨンしんちゃん』で、少なくとも映像はしっかりした劇場作品を送りだしてきた体力のある会社だが、まさか銃後を描いた『窓ぎわのトットちゃん』*1につづいて最前線を描くことになるとは。
ペリリュー -楽園のゲルニカ-:終戦80年に劇場版アニメ化 12月5日公開 戦場を生きた若者描く話題作 シンエイ動画と冨岳がタッグ - MANTANWEB(まんたんウェブ)

原作が最終回を迎えた2021年にアニメ化されることは発表されていたが、終戦80年を迎える2025年に劇場版アニメとして全国公開されることになった。
 アニメは、「魔都精兵のスレイブ」などの久慈悟郎さんが監督を務める。久慈さんが劇場版アニメの監督を務めるのは初めて。「ドラえもん」「クレヨンしんちゃん」などのシンエイ動画と、「ドッグシグナル」などの冨岳がタッグを組み、制作する。原作者の武田さんと西村ジュンジさんが脚本を手掛ける。

 しかし考えてみると、デフォルメされた低い頭身で悲惨な歴史を直視する作風は、先述した『ドラえもん』の複数作品もふくめ、シンエイ動画のさまざまな作品に通じるところがある。

 どちらかといえば久慈悟郎の起用が意外だ。フィルモグラフィを思い出しても八鍬新之介のような納得感がない。『魔都精兵のスレイブ』で西村純二は総監督をつとめたことを思えば、どちらかといえば西村が原作者とともに脚本で主軸をつくり、若手の久慈に現場作業をまかせた経緯かもしれない。
 もちろんこれまで見せる機会がなかっただけで、戦争や歴史を描いたアニメにとりくみたい思いを強く持っている可能性も充分に考えられる。
東映のラインナップ発表会に「花まんま」の前田哲ら登壇、大友啓史は「宝島」アピール(イベントレポート) - 映画ナタリー

久慈は武田一義の原作マンガに触れ「とてもかわいらしくてやわらかい表現で、ほかのマンガでは許されないような凄惨な描写が入っている。映画でも絵の力を借りて、そこにあった事実から逃げないようにがんばって表現していきたい」と力強く宣言した。

 いずれにせよ映像面では心配していないし、「超大作アニメーション」と特報で銘打つ意気込みも買いたい。歴史ある会社が力をいれて作るだけでも意義のある企画だ。もちろん内容も良ければなお良いが。