ドラマ「相棒」シーズン12の第2話「殺人の定理」

昨日、ぼくが数学監修をしたドラマ「相棒」が、無事放映された。
シーズン12の第2話「殺人の定理」だ。
ぼくは、リアルタイムで、超ハラハラしながら、鑑賞した。だって、ぼくが関与した部分の映像に不備があって、視聴者から批判を受けたり、ツッコミをアップされたりしたら、そりゃ大変だもん。これほど真剣にテレビドラマを観たのは初めてだった。一回観た範囲内では、不備はなかったように思う。
放映が終わったあと、即座にツィッターで検索したら、何百というツィートが続々と上がるのに感激した。こんなにもたくさんの人が観て、こんなにたくさんの人が感想を呟いているものか、と驚嘆した。
改めて、「相棒」というドラマの底力を思い知らされた。
それと同時に、ツィートの中にたくさんの「数学ファン」の声をみつけてうれしくなった。それらは、実際の数学をどちらかと言えば苦手としながら、遠い憧れや萌えを抱いている人々の感動の言葉だった。数学は、記号操作に秀でた人の特権的所有物ではなく、人間の文化に根付いた一つのある種の「物語」なんじゃないか、と思えた。
今回、これほど多くの人が感想をアップしたのは、ドラマの主題が「素数」だったからじゃないか、と思う。素数は、専門家や愛好家だけではなく、数学と無縁の生活を送る多くの人にとって魅力的で神秘的な存在なのだと思う。「素数萌え」という現象が、厳然と存在しているのだと思う。
 今回の物語は、「リーマン予想」が主題であった。ドラマの中では、リーマン予想についての詳しい解説はなかったので、ここで簡単に述べておく。リーマン予想というのは、ゼータ関数に関する予想だ。ゼータ関数というのは、全自然数の逆数をs乗して加え合わせる、という関数である。普通の収束の定義だとs>1でしか意味を持たないが、微積分の級数和(テーラー展開)を使って定義域を広げていくことが可能で、sは全複素数とできる。このように定義されたゼータ関数が、どのようなsに対してゼロになるか、それを予想したのがリーマン予想だ。具体的には、ゼータ関数の零点が「sが負の偶数、または、実部が1/2の複素数」の中にすべてある、と予想したのがリーマン予想というわけなのだ。
ドラマの中で杉下右京警部が語っているように、「ゼータ関数の零点がわかると素数の素性がかなりの程度わかる」というのが、リーマン予想と素数との関係である。なぜ、そうなのかについては、ぼくと黒川信重先生との共著『21世紀の新しい数学』技術評論社か、ぼくの最新刊『世界は2乗でできている』ブルーバックスを参照してほしい。
 さて、今回のドラマでぼくが何をしたのかを綴ることとしよう。
まず、シナリオには一切タッチしていないことを明記しておきたい。ぼくが監修を引き受けたときは、既にシナリオは完成しており、何カ所か「こんな雰囲気の数学の言葉を入れたい」とライターのかたが空けておいた場所に、適切と思われるフレーズを提案したのみである。ちなみに、シナリオは金井寛さん。以前の「相棒」では、将棋ソフトと棋士との対戦をシナリオ化したので、テクニカルライトをお得意とする作家さんと言っていいかもしれない。
ぼくの仕事は、数学に関わる小道具作りだった。いくつか紹介し、後日談としてのコメントを加えよう。
教室のOHPスクリーンの数式・・・これは、スタッフからの要望でゼータ関数の値そのものとした。
透明板、黒板の数式・・・これは、シナリオで導入された架空の定理「ファーガスの定理」に関わるもの。金井さんは、「ファーガスの定理」はミレニアム問題のどれかを思われるものとおっしゃり、例えば、P≠NPあたりはどうか、と提案してくださった。しかし、ぼくとしては、リーマン予想が主役になる物語でP≠NPを入れるのは、いろんな意味で重量感が出過ぎると思えた。それに、板書の見栄えとしてどうかな、というのがあった。それで、違う素材を選んだ。選んだのは、楕円曲線である。なぜ楕円曲線にしたか。第一に、リーマン予想に強く関係している。第二に、わかりやすい図形を描くことができ、映像的に見栄えがいい。第三に、表現が有限生成アーベル群になるので、Z/2Z⊕Z/2Zのような、多くの視聴者に目新しい、神秘的な記号が出てくる。このほうが、むしろ、微積分記号のような見慣れた記号が乱発されるより独特な雰囲気が出る、と思ったのだ。
被害者が本の余白に書いた数式・・・書き込みをする元の本のほうも、ぼくが作った。やはり、ガロア理論の本にした。リーマン予想にも楕円曲線にも関係するし、ハッセ図が絵的にいけてると思ったからだ。8ページくらい作ったけど、1ページ分しか映らなかった(泣けた)。
雑誌『数学ファン』の応募問題・・・被害者が、コンテスト問題の解答に応募した、という設定のもの。これは、ぼくが昔、実際に『数学セミナー』の「エレガントな解答求む」のコーナーで出題した問題を使った。「図形の問題を数論で解く」というタイプのおしゃれな問題だったのだ。でも、一瞬の間しかも部分的にのみ、映っただけだった(泣き)。
被害者の昔の英文論文・・・これが一番大変だった。ジャーナルに掲載されたものなので、きちんと作らないといけない。非常に時間がかかった。プロの数学者さえ知らないようなマニアックな素数に関する定理と、その証明を、きちんと英文化して10ページぐらい書いた。しかし、ほとんど映らなかった(涙)。
ファーガスの定理が掲載されている数学事典・・・これも、日本語で作成後に、監督から「英語にしたい」という無理難題が届いた。慌てて、英文に作り直した。6ページぐらい作って、ファーガスの定理の前後には、フェルマー予想やBSD予想も解説しておいたが、ほぼファーガス部分しか映らなかった(なんてこったい)。
犯人の大発見の論文・・・これについては、物語のメイントリックと関わるので、(再放送で観る視聴者もおられるわけだし)、詳しくは述べない。これも非常に大変だった。たくさん散乱させたい、とスタッフが言うので、10枚くらい分を書いた。最初、日本語で書いたのだけど、途中で監督から「英語にしたい」という無茶振りが飛んで来て、慌てて英文で書き直した。しかし、映像で見る限り、最初のページしか映ってなかった(T_T)。
まあ、細かく言うと、他にもいろいろ作ったのだが、主だったところはこんな感じ。オファーがあったのが、クランクイン直前だったので、2週間ぐらいどっぷり、この作業に埋没した。途中から、撮影と同時の制作となったので、「昨日作ったものが、今日、もう変更に」という大わらわな泥縄な仕事となった。
でも、まあ、とても楽しい仕事ではあった。そもそもドラマ「相棒」のファンだから引き受けたわけだし、最後のスタッフクレジットに自分の名前を見出したときは、感無量だった。「相棒」という名ドラマに自分の名前が永久に刻まれるのはとても誇らしいことだ。