ゲーム「ナルキッソス」「ナルキッソス2nd」 レビュー

そんなわけで。同人サークルステージ☆ななの全年齢向ビジュアルノベル「Narcissu」「Narcissu-SIDE 2nd-」WebDL版(フリー)をプレイした。

コンセプトとその回収

productにあるように、本作はボイス、絵、シナリオなど、ビジュアルノベルにおける構成要素の情報量を減らすことをコンセプトとしている。情報が減ることでむしろ想像力が刺激され、よりよい(ゲーム)体験ができるのではないか、ということについての実験作と理解している。*1
で、結論から言うとコンセプトはある程度成功したんじゃないかと思う。
制作後記では、絵と文字情報、片方が少なくなればもう片方を多くする必要があり、そのため思った以上に絵を使ってしまったと書かれている。情報を減らすことで想像力を喚起することは"「原理」としては正しかった"としているものの、作者自身が情報を削って表現するタイプではなかったことを再確認している。
ボイスについて。1、2共にボイスあり/なしが選べる。僕は2ボイスなし→1ボイスなし→2ボイスあり→1ボイスなしの順にプレイした。数時間で終わる作品なので、これからプレイする人にも是非ボイスあり/なしの両方をやって比較して欲しい。
どちらが良いかという問いにはかなり答えづらい。ボイスなしVerの脳内ボイスもいいんだけど、ボイスありVerではセツミ(綾川りの)の声が良かった。"「…暑……」"とか何気ない台詞が特に好きだ。息づかいが聞こえるくらい声が近いんだよね。2ndの姫子ボイスはやなせなつみ時空に引き込まれる感じがして抗いたくなる。このように合う部分と合わない部分があったんだけど、基本的にこのゲームはボイスの使い方が上手だと思う。時折、ぞくっとするようなポイントにボイスを配置してくる。
ヴィジュアルについて。立ち絵的なものがなく、限られた絵の中で想像力を働かせるのは楽しかった。このゲームは基本的に画面上下に黒枠がかかっているので背景CGやキャラクターが映ったCGもほんの少ししか見えない。そして、印象的な場面では黒枠を取り払って一枚絵を出してくるんだけど、その解放感が心地よいんだよね。確かに既述のように絵の情報は削りきっていないかもしれないけど、そのへんは結果オーライじゃないかな。僕が好きな絵は2ndのイメージヴィジュアル、鉄棒で身体を支えるセツミ。眉とか特に好き。
テキストについて。映画の字幕を意識した画面構成になっていて、二行以上の文章は表示されない。概ね読みやすかったし、変に情緒的なところがなく、淡々と死生を描く感じが良かった。
音楽について。BGMもボーカル曲も良かった。「ナルキッソス」「15cm」が特に好きだ。
声や絵は全体的な量に関わらず、配置次第で効果的な印象をプレイヤーに与えるということが確認できた。特に両作品のラストが良い。どちらも、音楽が流れる中で画面から黒枠がなくなって一枚絵が出現し、テキストが重なり、(ボイスありVerでは)ボイスが加わる。制限されてきた情報が収束するカタルシスが素晴らしい。

シナリオ

未プレイの人向けにストーリーを引用。

現代、暗い、主人公とヒロイン、どっちも死にます。

ナルキッソス ストーリー紹介

舞台は前作の6〜7年前。夏。
セツミと彼女を取り囲む人達との
アナザーのようなストーリーです。

ナルキッソス2nd ストーリー紹介

ホスピスが話の起点だから雰囲気は終始暗くはある。しかし、死生観を(解釈の余地を残すことも含めて)しっかりと描ききったいい物語だった。
基本的には制作者の言葉通り、「眩しかった日のこと、そんな冬の日のこと」、ただそれだけである。そこから先は個人的な感想になるし、どこまで他の人に聞き入ってもらえるかは分からないけれども、とりあえず思ったことを書いておく。以降はネタバレありでシナリオ感想を続ける。

逝く者と残される者の断絶

両作品を通して繰り返し現れるのが、死の他者性・非対称性である。すなわち、死に逝く者、この世界から消える者とこの世界に残される者との断絶という問題だ。
そもそも、この「消える」と「残される」という言葉からして非対称である。「消える」というのは自分の問題だけれど、「残される」-「(誰かを)残す」というのは他者との間に生まれる問題である。ここではまさにその問題の他者性が重要だ。
死は決して一人のものではない。誰かが死ぬ時、人は死に逝く者(ネロ)と残される者(アロア)に分かたれる。さらに2ndではここに一緒に死んで逝く者(パトラッシュ)が加わり、人間にはこの三択しかないと姫子の口から語られる。
それぞれの立場は非対称であり、三者三様の心の機微が生まれる。同じ人間でさえ、立場が違えば矛盾した気持ちになる。残される者になれば死に逝く者の側に居たくなるし、死に逝く者になれば残される者を遠ざけたくなる。そして、死の悲しみや苦しみについても、その非対称性が立ち現れる。

苦しみの非対称性

他者との関係における非対称的な苦しみについて説明しよう。

  1. 要因αによってAが苦しみ、
  2. Aが苦しむ姿を要因βとしてBが苦しむ。そしてさらに、
  3. Bが苦しむ姿を要因γとしてまたAが苦しむ。

両者は、苦しんでいるという点や苦しみの要因βとγは共通しているものの、(だからこそ2と3が相殺しても)AはBより一つ多くの苦しみを味わうし、要因αとβの内容は全くの異質であり、全体を見るとAとBは非対称的な存在になってしまう。
苦しみの連鎖を根本的に断ち切るには、要因αを取り除くしかない。しかし、Aが苦しむ要因αが絶対に取り除けないものであったら? そのようなαの一つの例が不治の病である。要因αの根本的解決が不可能な場合、AやBが2や3のような他者を要因とした苦しみから解放されるには、コミュニケーションをとるしかない。もう会わないようにする、というのもコミュニケーションの一つだ。逆に言えば、AとBとの間のコミュニケーションは、要因αの除去には何らの助けにもならない。それがまた空しさや辛さとなる。

過去の非共有・ルールの共有

また、本作における消える者と残される者の間では過去が共有されない。
両作品でメインとなる二組の人物関係、「姫子-セツミ」「セツミ-主人公」で言うなら、2ndにおいて、姫子がかつてヘルパーとして担当した少女のことは姫子の回想として表現されるけれど、それはセツミに認識されない。ナルキ1においても、姫子とセツミの間にあったことは主人公が知るよしもない。主人公と千尋においても、「姫子-セツミ-千尋」の関係までがはっきりと主人公に伝わるわけではない。
唯一「姫子-セツミ-主人公」間で共有されるのが、7Fで死を待つ者たちが引き継いできた「ルール」である。これは本作のメインキャラである彼らが「残される者」でありながらやがて「消える者」である二重性を持つために受け継がれたものである。そして、実は「今日明日には死なないであろう僕たちもその二重性を持っているんだよ」という問題意識がラストの「主人公-千尋」間のルール引き継ぎと千尋のモノローグで現れるという仕組みになっている。
この二重性については、つまり違う性質を抱え持っている→矛盾しているとなるわけで、作品内で「何をどうすればいい」という答えが出ないというのは当然か。結局、その立場になった時に自分の"心を殺さ"ないでやりたいようにやるしかないんだ、という死生観だと認識している。*2
ルールについては、「ナルキッソス3rd」でより詳しく語られているようだ。僕は未プレイなのであまり踏み込んで話せない。ただ、ルールは変更・追加が可能という点は面白い。姫子(と少女)が変更したルール「友達は作ってもよい」と、セツミが付け加えたルール「残すものには、笑ってあげて」。
これらの意義について考えるのもいいけれど、ここではルールの可変性自体が重要かなと思った。というのは、ルールを変えた彼らは全て若者なわけで、これは若者の特権である「自身、あるいは自身以外の何かを、変えることができる」という可変性が如実に表れているんじゃないか。ルールの可変性≒ルールを変える者の可変性≒若者の可変性。若くして死に直面した彼らだからこそ、若者の特性を発揮したとは言えないだろうか。で、何で彼らが若者なのかというとこれがヴィジュアルノベル≒美少女ゲームの系譜にあるからだよね、というのはさすがに言い過ぎか。

千尋

また、既述のように、千尋は物語からフェードアウトしているように見えて、とても重要なポジションにいるように思える。ナルキ1,2を読んだ限りでは、これは実は「姫子-千尋」の関係が鍵で、姫子から千尋へルールを渡す物語だった、とも言えるわけで。本当は姫子も千尋に直接ルール(尊い言葉)を渡したかったんじゃないか、とか(あるいはパトラッシュにしたかった)。でもルールを渡せるのは死に逝く者だけだし、ということでセツミ(-主人公)ルートを迂回することになった、と。命のリレーっていうのはやっぱりそれなりの速度で進むものであって、渡したくても渡せないバトンもある。じゃあ人伝いに渡せばいいじゃん、みたいな。

三着の服

そして、「姫子-セツミ-千尋」ラインを考える上ではセツミが持つ三着の服の存在が重要だ。2ndにおけるセツミの服は、パジャマ、セーラー服、姫子からプレゼントされたワンピースの三つが主。パジャマがネロ、セーラー服がパトラッシュ、ワンピースがアロアに対応しているのかな。三択と三着という同じ数字には意味があると受け取るのが妥当かと思うので一応当てはめてみた。
そしてセツミはワンピースに袖を通しかけてやめ、それを千尋に渡す。姫子の遺言として、ワンピースと交換に千尋から地図と五万円をもらう。これはアロアであることをやめて、ネロになることを意味しているんだろうか。このへんの解釈は自信ないなあ。

地平線、水平線、限界

最後に余談的なものを一つ。両作品においては、水平線や地平線が印象的な背景として配置されている。霜山徳爾「人間の限界」にあるように、それらの境界線は人間存在の限界を示すものであり、僕たちは常に線のこちら側で生きている。そして線が消失する時はそれすなわち世界(その人の存在)の終わりだ。この物語が極限の緊張状態になった時、姫子は地平を見渡す山に登って神に祈り、セツミは海に向かって進み、水平線に溶けた。*3

結

「ナルキッソス」「ナルキッソス2nd」はプレイ後に深い余韻を残すヴィジュアルノベルだった。いつか、僕(たち)にも「ルール」が必要になる時が来るだろう。その時まで、このゲームのことを覚えていられるだろうか。できるだけ覚えていたいと、思った。

ナルキッソス 3rd

ナルキッソス 3rd

*1:2ndでは、さらに「間」を意識したと記されている

*2:心を殺さない≒自分を大切にする≒自己愛=ナルキッソスの花言葉、と繋げられるかな

*3:上記の論理は帰納法的に作られたものであり、それが演繹できたからといってそこまで驚くほどのものでもないか