ひがやすを技術ブログ

電通国際情報サービスのプログラマ

梅田望夫にオープンソースを語るなとガツンと申し上げたい

例えば、インターネットが社会にもたらしたインパクトのひとつに「オープンソース」という考え方があります。これは元々ソフトウエア開発に端を発した概念なのですが、いまやそれにとどまらず、世の中をより良い方向に導くと思われるテーマがネット上で公開されると、そこに無数の知的資源が集結して課題を次々に克服していくといった可能性を含む、より広い応用範囲での思考や行動原理を意味しています。サブカルチャー領域への応用は少しずつ進んでいるのですが、全体として、こうした動きがいまだに日本では根付いていません。政治とか社会変化がテーマとなると特に、陰湿な誹謗・中傷など「揚げ足取り」のような側面の方が前に出てきていて、ウェブのポジティブな可能性──何か知的資産が生まれそうな萌芽がネット上に公開されると、そうしたことに強い情熱を持った「志向性の共同体」が自然発生して、そこに「集合知(ウィズダム・オブ・クラウズ)」が働き、有志がオープンに協力してある素晴らしい達成をなし遂げるといった公的な貢献──を育む土壌がありません。

本人の希望によりはしょっていた部分を戻しました。次のやつが、最初に引用したやつね。別に恣意的に間違って解釈させる気なんてないけど。そんなことをしても、もとの文章を見ている人がほとんどなので意味はないから。
最初に引用をはしょったのは、はしょっても意味は変わらないと判断したためです。追記にも書いてあるとおり、意味は余り変わっていないと思いますが。

例えば、インターネットが社会にもたらしたインパクトのひとつに「オープンソース」という考え方があります。
全体として、こうした動きがいまだに日本では根付いていません。
何か知的資産が生まれそうな萌芽がネット上に公開されると、そうしたことに強い情熱を持った「志向性の共同体」が自然発生して、そこに「集合知(ウィズダム・オブ・クラウズ)」が働き、有志がオープンに協力してある素晴らしい達成をなし遂げるといった公的な貢献──を育む土壌がありません。


おい望夫(怒っているのであえて呼び捨て)。
お前はオープンソースの何を知っているというのだ。
何を根拠に日本にオープンソースを育む土壌がないというのだ。
どれだけの日本人がオープンソースにかかわってきたのか本当に知らないなら、オープンソースについては、語らないほうがいい。薄っぺらい言葉は直ぐにぼろが出る。


別に自分の見解がオープンソースにかかわっている人を代表しているとも思わないが、オープンソースの世界は、行動することに価値を認める価値観だと思う。それが多くの人に役に立つならなおさらいい。


望夫よ。今回の翻訳プロジェクトでお前は何をしたというのだ。「この本は誰が何語に翻訳してウェブ上にアップすることも自由」と宣言する以外に。(水面下でいろいろやってたというならごめんよ。)
翻訳プロジェクトに参加している人はすばらしいと思う。実際に行動しているからね。


仮に、水面下でいろいろやってたとしても、わずか三ヶ月でオープンソースの本質がつかめるとも思えないし、本質をつかんでいる人なら、「日本にオープンソースを育む土壌がない」なんて軽はずみなことはいわないだろう。
オープンソースというのは、日の目を見ない地道な活動がほとんどだ。有名になるプロダクトなんてほんの少数。でも、すべてを含めてオープンソースの世界が成り立っている。


知らないことを軽々しく語るなよ。


追記:全文引用に変えましたが、オープンソース的な動きが、日本にはないといっている意味では同じでは。日本のWebが残念だという梅田さんの主張は一つの見解だと思いますが、だからといって日本のオープンソースが残念というのは、おかしいと思いますよ。
論理的に私がどのように捉えたのかを書いておくと、
「こうした動きがいまだに日本では根付いていません」の「こうした」は、「オープンソース」という考え方をさしていると思います。
また、「有志がオープンに協力してある素晴らしい達成をなし遂げるといった公的な貢献──を育む土壌がありません。」の土壌がないというのは日本をさしていると思います。
つまり、「日本には、オープンソースが根付いていなし、オープンソースを育む土壌がありません。」という風にいわれているのだと思います。
それに対し、「日本にも地道にオープンソース活動を続けている人はいっぱいいるし、それを支える土壌もある」といっているのです。