hibinodokusyokirokuのブログ

社会学、哲学を学ぶ大学生。現在留学中。読書、旅、食べることが好きです。

藤高さんの『ジュディス・バトラー 生と哲学を賭けた闘い』を読んで

余裕のある朝などに、4ヶ月ほどかけて読み進めてきた哲学書をようやく先日読み終えた。

授業で読むのとは違って教授の解説には頼らずじっくりと向き合い、読む気になれないときは放置しながらなんとか読み終えるというのは、以前、何冊も本を読んでいたときの自分のスタイルだった。本が好きになれたのは、親がそう仕向けてくれたにせよ、誰からも強制されず、読んでいる間はその世界に浸れたからだ。

 

哲学書は、フィクションの世界観に浸るという感じではないが、新しい思想と出会い、自分の内面が塗り替えられていく感じがする。

 

今回読んだのは藤高和輝さんの『ジュディス・バトラー 生と哲学を賭けた闘い』

www.ibunsha.co.jp

 

バトラーの著書、『ジェンダー・トラブル』を軸にバトラーの哲学について考察されている。構成は以下のようになっている。

 

序論 生と哲学を賭けた闘い

 

第一部 哲学

第一章 コナトゥスの問い――バトラーと地下室のスピノザ

第二章 欲望と承認――『欲望の主体』を読む(1)

第三章 欲望の主体と「身体のパラドックス」――『欲望の主体』を読む(2)

 

第二部 『ジェンダー・トラブル』へ

第四章 現象学からフーコーへ――八十年代バトラーの身体/ジェンダー論

第五章 『ジェンダー・トラブル』とアイデンティティの問い

 

第三部 パフォーマティビティ

第六章 ジェンダー・パフォーマティビティ――その発生現場へ

第七章 身体の問題、あるいは問題としての身体

第八章 メランコリー、そして生存の問いへ

 

第四部

第九章 バトラーの社会存在論

第十章 バトラーのエチカ

 

結論に代えて――共にとり乱しながら思考すること

 

 

ここからは、自分が覚えておきたいことを、文章にしていく。まだ勉強途中なので解釈に間違いがあるかもしれないが、難解な部分は飛ばしたり、引用したりすることで出来るだけ本文に沿った解釈ができるよう努めることにする。引用部分は、イタリック体で表記し、括弧内に参照したページ数を記す。

 

第一部は読み始めということもあり、抽象的な哲学の話が特に難しく感じた。しかし本書が、ジェンダーの問題にとどまらず、そこから生きることを考えていくバトラーの思考の道筋を解説していくためには、当然思想に影響を与えた哲学の解説が不可欠になる。バトラーにとって「哲学」はその出会いの時点から「いかに生きるか」という問題と切り離しえないものだった。(p.20) そのような問題関心はスピノザに関心をよせるうちに、社会的な規範から排除された者が「生存」し、なお「承認」に値する生を送ることが可能になるのはいかにしてか (p.21) という問いになったのではないか、と考察されている。バトラーは、他者性を考察するためにヘーゲル哲学に取り組むようにもなり、そこではスピノザからヘーゲルへの移行がみられ、コナトゥスの定義にも変化が加えられるようになる。生を欲望するコナトゥスは「承認を求める欲望」として再定式化されなければならない(p.25) と考えるようになる。

それはなぜか。そこには「自殺」をどう捉えるかという問題があり、スピノザの「自殺」に関する記述は、自殺をコナトゥスとは内的に関わらないもの、「外的原因」によるものだと位置づけている。しかし、本当にそうなのか、とバトラーは問うことになる。藤高さんがバトラーの『ジェンダー・トラブル』から考察するのは、「ジェンダーの規範」から排除された人が「生きながらにして死を宣告される」状態が存在した/しているということである。(略)「生きながらにして死を宣告される」経験は、社会的な承認の存在しない状況ではコナトゥスが困難であるということを示唆しているだろう。(略)「承認」という社会的概念をコナトゥスが必要とするのは、コナトゥスのみでは「社会的存在」を十全に捉えることができないからである。この点で、スピノザが「自殺」をコナトゥスの本性に即して説明できないのはその証左であろう。スピノザにとって「自殺」はコナトゥスではなく「外的原因」によるものであり、この原因が「社会的なもの」であったとしても。それはコナトゥスとは本質的には関わりのない「外的なもの」であらざるをえない。(略)これらのことはコナトゥスを「承認」との関係で再考する必要があることを示している。コナトゥスは「社会的存在のより柔軟な概念として再定義」されなければならないのだ。バトラーがヘーゲルを会してコナトゥスを「承認を求める欲望」として再定式化し、のちにコナトゥスの思想を「社会的存在」に関する理論として鋳直そうとするのはそのためである。(p.31~34) そして、藤高さんはバトラーの思索を、コナトゥスの問い、「生きながらにして死を宣告された」者たちが投げかける問いに貫かれたものだと考察する。その問いとは、社会から周縁化され排除された者が、「生存」し、「承認」に値する「生」を送ることができる世界とはいかなるものかという問いである。(p.35)

 

第一部では、この問いの確認のあと、『欲望の主体』の読解になる。このあたりは読み進めるのに骨が折れたのであまり内容を振り返ることができない。哲学の知識を増やしてからまた読み返したい。

 

バトラーは『現象学』を「主体を待ちながら」という様態に貫かれたテクストとして位置づける。すでにこの操作は、バトラーのヘーゲル解釈の特徴を浮き彫りにしている。つまり、ヘーゲル的主体とは「絶対者」の到来を待ち続ける主体である。さらに、この主体はその「絶対者」が到来するまで、言い換えれば私たち自身が絶対者であると認識するまで、「これこそが絶対者だ」と確信しながら次の瞬間にはその確信の誤りに遭遇するような主体である。(p.44)

 

バトラーはサミュエル・ベケットの『ゴドーを待ちながら』と『現象学』を類似した構造をもつテクストとしている。『ゴドーを待ちながら』は読んだことがないのだが、私はこの説明を読んだときにカミュの『最初の人間』を思い出した。この思いつきが妥当なものかはわからないが。

 

その後、第二部では現象学からフーコーへと議論は移っていく。バトラーは「行為主体」や「コギト」を前提としない「構築」の理論を確立することを試みたのであり、その際とりわけフーコーの「主体化=服従化」の理論が援用された。(p.106)

 

このあたりも難しかったが、シュナイダー(病人)に関するメルロ=ポンティの記述において描かれた「正常なセクシュアリティ」にバトラーがミソジニーの構造を指摘するところが面白かった。

脱文脈化された女性身体、主体としては生きていないような対象としての身体。(略)

その身体を知覚する主体は男性である。この男性は「奇妙にも肉体離脱した(disembodied)のぞき魔であり、そのセクシュアリティは奇妙にも非-肉体的である」(Butler 1989a:92)  (p.116,117)

 

なんだかおかしい、うさんくさいと思っていた部分が言語化されていてとてもすっきりした。また、私にとって新しかったのは、「家父長制」によって指示される「抑圧する男」と「抑圧される女」という見取り図は、「異性愛規範」を前提にしてはじめて成り立つ構図なのであり、決してジェンダーの抑圧という単一の権力構造によってのみ規定されているわけではない(p.135)ということだった。

現実の、例えば日本に根強く残るジェンダー規範はどうしても家父長制の影響を色濃くみてしまうし、必要な考え方ではあると思うが、その前提に「異性愛規範」があるということはあまり意識したことがなかった。二元論的なジェンダー観の援用は、異性愛を自然化し強化する規範的な政治的システムを無批判に前提してしまうことになる。(p.136)それでは「フェミニズムの政治」はどこに向かえばいいのか。

バトラーが模索するのは、法の外部を想定しない「フェミニズムの政治」である。ここから、またバトラーのフーコー解釈が解説されることになる。ここではフーコーは批判的に読まれるが、それはおそらく「法的権力」と「生産的権力」のフーコーによる区別がそれ自体(フーコーが法に付したはずの)二元論的な構造をもつもの(p.139)だとバトラーが述べているからだろう。

 

バトラーのフーコー解釈を確認したところで、藤高さんはジェンダー・パロディの解説に入る。ジェンダー・パロディの例としては、レズビアンにおけるブッチ/フェムの構造や、ドラァグが挙げられる。これらのパロディが批判されてきた背景には、そもそもオリジナルなジェンダーアイデンティティが存在し、その「真」に対する「偽」としてパロディを位置づけている状況がある。それに対しバトラーが提示するのは、「成功/失敗」という「行為」の水準における尺度である。

 

ジェンダー・パロディはジェンダー・アイデンティフィケーションの「失敗」である。例えば、ドラァグがその「失敗」であるのは、セックス、ジェンダー、セクシュアリティ、それらのあいだに想定される「首尾一貫性」の「法」から逸脱しているからである。しかし、この「失敗」が明らかにするのは、セックス、ジェンダー、セクシュアリティがそれぞれ「別物」として演じられうることで、「ジェンダーの偶発性」を明るみに出す。セックス、ジェンダー、セクシュアリティのこれらの水準が一貫しているわけではなく、むしろその「自然なもの」にみえる「首尾一貫性」が「規範的な幻想」であるということが暴露されるのだ。(p.144より、一部省略)

 

ジェンダー・パロディを「行為」として、「失敗」と捉えることは、オリジナルなジェンダー(だと人々が思っているもの)への同一化も、また等しく「行為」である、すなわち「オリジナル」それ自体が「模倣の構造」を持つことを示すことになる。そのためバトラーは、「現実」になることの失敗、「自然」を身体化することの失敗はすべてのジェンダーの演技に共通する構造的な失敗である(p.146)と言う。

 

オリジナルなものとそのパロディが、実際は「コピーとコピーの関係」だとパロディの実践により明らかになるとき、そこに「笑い」が生まれるとバトラーは指摘している。この「笑い」は、ものまね芸人に対する笑いと一緒なのだろうか。これを考えようと思い、吃音を抱える芸人インタレスティングたけしさんを例にとろうとしたが、吃音とジェンダーではかなり構造が違いそうだと思い、ここでは議論しないことにする。当事者問題などを考えるいいテーマになりそうなのでいつか考えてみたい。

 

バトラーの「フェミニズムの政治」に戻ろう。第二部までの内容で、「女」というアイデンティティは「多層的な権力の配置」のなかで形成されるのであり、それゆえジェンダーだけを「階級や人種、民族、その他の権力関係の諸軸で作られている構築物から分析上、政治上、分離」することはできない(p.148)と明らかになった。

アイデンティティ・ポリティクスはその内部に「他者」ないし「無限のエトセトラ」(GT:196) を抱え込まざるをえず、したがって、そのアイデンティティの「失敗」に直面せざるをえない。このことは、アイデンティティが前提にされるべきカテゴリーではなく、「様々な意味が競合する」場であることを示している。(p/149)

 

このあたりを読んでいて思い出したのは、『女たちのポリティクス 台頭する世界の女性政治家たち』ブレイディみかこ | 幻冬舎という本。2024年からすれば少し前の話題にはなるが、面白い。

 

「女たち」の中の差異、たとえば肌の色、階級、民族、セクシュアリティといったものは、分類するために用いられるべきではない。こうしたフェミニズムのなかの権力概念に対立するときも、バトラーはフェミニズムの内部から批判をしていることが重要である。バトラーにとって「アイデンティティの外部」という位置はありえない。その位置はむしろ、フェミニズムがその当初から一貫して批判してきた「普遍」を標榜する「男性的主体」の位置と同じである。(p.131) 「女たち」の差異はそこで用いられている「女」の意味そのものを問う系譜学の試みを要求するものである。それは言い換えれば、「女」というアイデンティティが所与の実体や属性ではなく、それ自体が絶えざる「意味づけのプロセス」にあることを示している。(p.149)

 

バトラーの要求する「フェミニズムの政治」は、このような「意味づけのプロセス」にとどまることを要請する。「女」という言葉でいったいどんな「私たち」を指しているのか、その「意味」を耐えず問うこと。アイデンティティとそれが抱える矛盾やトラブルをも引き受けながら、それを「他者」へと向けて「再意味化」に開こうとする政治のあり方である。(p.152)

 

改めて『ジェンダー・トラブル』というタイトルを考えてみる。ジェンダーはそもそも社会的政治的文化的なものから切り離すことができない。また、あるジェンダーをアイデンティティとすることは、どれもパロディという行為を繰り返すことでしかなく、規範的なジェンダーアイデンティティなどない。そのなかで私たちがすべきことは、混乱、トラブルにみちたジェンダーという問題を、その内側で常に問いながら考えること、と言えるだろう。

 

引用ばかりになったが、今回は第二部までで区切りたいと思う。書くより読む方が簡単なので、書くべき本がたまっていき、続きはいつ書けるかわからない。