キモチの問題なんですけどしょうがないからオカネで解決してあげます

津田さんが絶望した文化審議会での里中委員・三田委員らの発言 - Copy & Copyright Diary

のエントリを読んで私も絶望した。ただ、何度も何度も繰り返されているので、多くの人がまたかよ・・・と言う感じだろうから、あえて再び声を上げることにする。本当は、実に面倒くさいんだけど。まぁ、読むのも面倒だと思うので、最初にこのエントリで何を批判するかについてまとめておこう。

一部の人たちのキモチを大事にしなさい、文化的に遅れている君たちがそれを表すことができるのは財産権の延長くらいだよ(大多数の人が犠牲になるのは当然のこと、企業も儲けを維持できる、と言うことには触れません、都合が悪いので)

これだけ読んでくれたら、あとは蛇足だよ。あなたが思ったことを思った通りに書くだろうから。繰り言でしかないので。

本当は金の話なんでしょ?キモチの問題だっていってるけど。

【里中委員】 みんなが経済で生きているならば,どこの国も延長しないはずなのです。それをどうして欧米は延長して日本は延長しないのだろうというと,それ以外の要因で日本は延長しないのじゃないかということが先ほど瀬尾委員のおっしゃった著作権者が大事にされていないのではないかという,そっち側の感想に行ってしまいがちになるので,どなたか説得力をもってそれを教えていただきたいし,すべての著作権者と相続者にそれを伝えてほしい。

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感情論、というより信念に対して説得力を持って回答してくれ、といわれてもそれは無理難題というもの。また、みんなの経済のためではなく、一部の人たちの経済のために延長しただけであって、気持ちの問題ではないということは言うまでもないのだが、この方は本当に理解されていないのだろうか。
ちなみに、瀬尾委員の述べた感情論というのは「著作者が何かというと50と70という数字ですよね。それによって,50より70のほうが多いのだから,自分の作品が社会的により大切にされているという直感的な思いがまず最初にあるということ,こういう思いがインセンティブになっているというのが基本的な意味なのです。」という70の方が大きいからインセンティブになるという、そんなこと誰が考えているんだという詭弁なのだけれども*1、もしそういった創作者の方がいるのであれば、どうぞご勝手に創作意欲を失ってくださいとしか言いようがない。そもそも50より70だから社会から大切にされているのだと考えられるほどの人は、既にそれ以外の点で社会から大切にされていると感じられるごくごく一部の人たちであって、大半の創作者は社会から大切にされているという感覚を持ちうることなく創作に取り組んでいる。もちろん、それはそれ、これはこれといわれるのかもしれないが、少なくとも「今ここ」において社会から守られているという感覚がない人たちにとって、「50より70」というどうでもいいことで社会から守られているという感覚など生まれようはずもない。
少なくとも「今ここ」で必死に格闘している創作者こそ、私は支えたいという気持ち(信念)があるので、ごくごく一部の社会的に受容されている人だけのインセンティブをさらに増すだけのポリシーに何の意味があるのか理解に苦しむ。むしろ、その程度のことで社会から守られていないというナイーブな方にはどうぞ創作意欲を減退していただいて、「今ここ」で必死にもがく人たちにチャンスが回ってくることこそ、社会にとっての利益となると考える。そのごくごく一部の人は守られなくてもいいのか、と言われるかもしれないが、一部の人たちだけを守るためのものを、わざわざ社会が高いコストを支払ってでも実現せよ、という方がどうかしている。
もちろん、そんな空想上の生き物はいないし、いたとしても本当にごくごく一部の人たちであり、しかもそれほど高いインセンティブを生み出すとも思えないようなことを、社会が膨大なコストを支払ってでもなすべきだというのは、あまりに潔癖すぎるのか、別の意図があるのか、創作の受け手の迷惑も考えない創作者至上主義者なのか、としか考えようがないのだが。
なお、里中委員は次にこのように述べている。

それと,著作権フリーになった方が,みんながよく利用して,それは著作権者も草葉の陰でうれしいだろうと,それは分かります。分かりますが,その使われ方がどうしても,自分でもう何の権利もないと,言えないという,遺族にとって悲しい使われ方がこの世には多々見受けられるということで,財産権・人格権,人格権は作者が亡くなった途端に消滅しますが,財産権がせめてあることによって守っていきたいという遺族の感情,それを長い間安心していたいというのがどうして悪いのかと思います。

悪いとは言わないが、そのために他の人たちが膨大なコストを支払わねばならぬという理由にはならない。原則PD化した創作物の利用は自由、ただし、一定の制限を設けた上で利用の差し止めを(名誉回復請求など)認めよというのならまだしも。財産権で管理させろというのは乱暴すぎる。また、常識的範囲で遺族の意に介さないと思われる利用があるのだとすれば、それを許容している状況というのは芸術文化そのものの未熟さであり、翻ってそれは日本の創作者自身が育てた創作の受け手の総意でもあるといえる。財産権で守っていればいいというのは、臭いモノには蓋的なあまりに短絡的すぎる発想であり、そもそも創作の受け手である人々を軽視した発言とも取れる。
あと三田委員のげんなりするお話。

著作権というのは個人の権利であるということです。いかに,社会全体の利益が大きいとか公共性があるということでも,個人の権利をなるべく侵害しないようにするというのが民主主義国家であります。(中略)先ほどのご指摘というのは,著作権を短くするとこんなに大きな経済効果があるよという話ですけれども,それは個人の犠牲の上に成り立つ経済効果です。

ごくごく一部の限られた人たちのために、社会の個々の成員(消費者や恵まれた状況に身を置けなかった創作者たち)が犠牲になれ、というお話ですね。

谷崎潤一郎の作品は50年分の価値しかないのか,これは日本人が文化というものをどういうふうに捉えているかということにかかわってくるだろうと思います。

私が三田氏を嫌いでしょうがない理由としては、この方は文化を支える創作の受け手を馬鹿にしているというか、見下している感があるから。
金の問題ではないと言うが、この発言からは金の問題だといっているようにも思える。では、我々が金を施してやるよ、といえばそれは文化的といえるのか。金を支払われることが創作物の価値を決めるのであればそうだろう。だが、そんなことはない。
谷崎を持ち出しているが、さて存命中ですら作品を絶版にされた作家がいて、出版社はもう出す気がないといっている作品でも、それを何とかして手に入れたい、再度出版させたいという消費者の方々がいるのだが、さて、その作品の価値はいかほどなのだろう。そして日本人の文化をどうとられるというのだろう。

私も創作者の一人でありますから,日々創作をしているわけでありますけれども,例えば今の読者に迎合するような風俗的な作品を書きますと,大きな利益が得られるということは予測されます。一方で,50年,100年残るような作品を書こうと思うと,これは,今は売れないかもしれないということがあります。現に,私は今年児童文学を書きました。これは,私に孫が4人いるからであります。この孫に読ませたいということが第一でありますけれども,この孫の孫の代まで長く残っていくような作品を書きたいという強い意欲のもとに作品を書いたつもりであります。

「今の読者に迎合するような風俗的な作品を書きますと,大きな利益が得られる」?やれるものならやってみてほしい。そのくせ、孫の代まで残したい、残っていく作品であるためには、財産権が長く残らねばならない、つまり商用ラインに乗せられる状況でなければならない、といっているようなものだが。

50年,100年残るような作品を書こうと思うと,これは,今は売れないかもしれないということがあります。

ならば、そうした作品を作ろうとする創作者の「今」を支えてやればいい。死んだあと守ります、などという決まり事がどう影響するのか全く理解できない。

冒頭のまとめに追加すると・・・

70じゃなくて50だから創作する気が出ないよーというなら、とっとと止めちまえ。

*1:他にもより大きなインセンティブはあってそちらの方がより創作者を動機づけているのでは?という回答に対しては、それはそれ、これはこれ、別に考えてほしいというような反論をしているが、そもそも「50より70」が創作のインセンティブとして働いており、さらにそれが社会に対して還元されているという点を明らかにしなければ、こじつけに過ぎない程度、もしくは、そういうナイーブな方もいらっしゃる程度の話でしかない。