燃える林檎の樹のように

 

 

 

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*この文章は、ぽっぽアドベント2024の23日目です。今年のテーマは「枠を壊せ!」。 (はとさん、今年も素敵な企画をありがとうございます。忙しい時期ですが、毎日素敵な文章が読めると思うだけで、元気が湧いてきますね)

 

 

薪ストーブと考えること

薪ストーブを導入した。炬燵に入ると出られなくなるというが、薪ストーブも炎の前から動けなくなる。『赤毛のアン』では、何百年もたくわえられた夏の日光が薪から輝きでてくると表現されていたけれど、そんな詩的な表現が似つかわしい暖かさだ。ストーブの中で踊る火はいくら見つめても飽きなくて、どんどん時間が溶けていく。

そういえば最近、何もしないでいる時間がほとんどなかった。仕事も家庭も忙しいし、少しでも暇があればスマホをいじってしまうし。でも、ストーブを覗きこんでいるときだけはそうした日々の雑事から切り離されて、心が勝手に落ち着いていく。

ストーブの中の温度が十分に高くなってくると、薪から立ちのぼる炎とは別に、空中で可燃ガスが燃え始める(二次燃焼というらしい)。火がダンスを踊っているように見えて、なんとも不思議である。『ハウルの動く城』に登場する火の悪魔カルシファーみたいだ。きっと、原作者のダイアナ・ウィン・ジョーンズも暖炉の火を見つめながら想像の翼を羽ばたかせたんじゃないかしら。

薪ストーブと向き合っていると、色々な本のことを思い出す。確か中世風のファンタジーで、お城の大広間にある暖炉は「牛一頭を丸焼きにできる大きさ」と表現されているのを読んだことがある。うちの小さなストーブですら十分に暖かいのに、そんな巨大な火を焚いたらどれくらい暑いのだろう。確かその暖炉は丸太をそのまま火にくべていたから、きっとお城の裏には巨大な丸太保管場があるに違いない。そこで2~3年乾かしてから、大広間に運び込むんだろうな。

そう、薪ストーブで良い感じに火を燃やし続けるためには良質の薪をたくさん用意しなくてはならない。薪に水分が残っているとなかなか温度が上がりきらないし、ストーブ自体にも損傷を与えてしまう。だから十分に時間をかけて薪を乾かす必要があるのだ。

さらに、広葉樹と針葉樹では燃え方が違う。最初のうちは密度が軽い針葉樹の薪を焚きつけにして燃え上がらせてから、ゆっくりと燃える広葉樹に火を移していくらしい。ナラとかクヌギが良いそうだが、林檎や桜の木も薪になる。そういえば荻原規子さんの児童文学のなかで、冬至のお祭り用に林檎の樹から作った薪を仕入れるシーンがある。普段は焚きつけばかりを燃やしていた主人公は、特別な薪に大喜びする。暖炉にくべたら甘い匂いがするとあって、いったいどんな香りだろうかと想像したものだ。

どんな薪を使うかによって、立ち上る炎も変わってくる。それはまるで、人間の頭の中みたいだ。ガラス戸の向こうで燃える炎のように、思考活動も脳という場所で物理的にエネルギーを消費する。薪=知識を与えられると、火はどんどんと大きくなっていく。焚きつけみたいにパッと燃えてすぐに燃え尽きてしまう知識もあれば、広葉樹みたいにじっくりと燃え続ける知識もある。つまり、勉強と同じだ。

そんなことを連想したのは、たぶん、子供の中学受験を経験したからだと思う。

 

薪ストーブのなか。下から順に、広葉樹、針葉樹、焚きつけ(桜の小枝と干した蜜柑の皮)を積みあげている。



 

知らぬが仏の中学受験

日本の首都圏では、中学受験をする子供の比率がどんどん高くなっているのだという。確かに家人(息子)の同級生たちもこぞって塾に通っていた。それに影響されたというわけではないが、家人には他者と異なる個性が許容される学校で青春を過ごしてほしかったので、4年生の終わりごろから塾に通ってもらった。そして、今年のはじめに無事中学受験を終えた。

これがもう、ほんっとうにめちゃくちゃに大変だった。受験で解く問題はどんどん難易度が上がっているのだと思う。学校側が難しい問題を出しても、塾側が攻略法を教えてしまえば点差がつかなくなってしまう。そこで学校側は新たな問題を考案するという「いたちごっこ」が続いているんじゃないだろうか。

ものすごい量の知識や解法を詰め込まなくてはならないし、学校の課題と塾の宿題と中学校の過去問が並行するタスク管理は、ほとんどの子供には不可能だ。面倒見の良い塾もあるようだけれど、どういう価値観を持った先生か分からないし、塾生徒の性被害報道などもあって怖かった。だから結局、私が家人の勉強をサポートすることになった。

最近知ったのだが、こういうのを親の「伴走」というらしい。「ともに走る」とはまたぴったりの表現だと思う。思うのだが……そもそもこういうテクニカルタームの存在を知らなかったわけで、私は中学受験の世界にとてもうとかった。

昨年度は異常なほど仕事が忙しかったので、調べる暇がなかったというのもある。でもそれだけではなくて、ネットで検索したらぞろぞろと出てくるだろう沢山の情報に圧倒されたり不安になったりすることを無意識に避けていたのだと思う。

中学受験が終わり、家人の学校生活が軌道に乗ったころになって、「中学受験について発信している人が一杯いるんだねえ」と、夫がさりげなくコメントした。それで初めて「伴走」という言葉を知り、悲喜こもごもの親御さんがたくさんいらっしゃることを知ったのだった。もしも去年の時点でSNSでの情報収集をしていたら、私はとても不安になっていただろう。他のお子さんと比べてしまったりして、無理やりにでも長時間勉強させていたかも。

幸いにも私はSNSの世界をまったく関知していなかったので、のんびりしたものだった。何なら11月くらいまでは学校の行事や勉強の方を頑張っていたと思う。そこまで模試などの成績が良いわけではなかったが、家人の成績で入れそうな難易度の学校もあったので気にしていなかった。

いやむしろ、私は家人の勉強の足を引っ張っていたような気もする。なぜかというと、私自身が中学受験を「攻略」するような勉強のやり方が好きではなかったからだ。

 

世界の切り口

家人の受験勉強を手伝っている時に一番心配だったのは、彼が勉強を嫌いになることだった。目的のために我慢して勉強するようになったら後が辛い気がしたからだ。例えば大学の授業なども、出来るだけ最小限の労力で単位を取れることだけを目指すだろう。それはそれでゲームのような楽しさはあるだろうけれども、面白いからもっと知りたいという気持ちには繋がらなさそうだ。

だから、問題を解くのには役に立たないことにたくさん時間を使っていた。俳句の単元では、季語や体言止めといった技術ではなくて、どの俳句が一番好きか、俳句の魅力はどこにあるのかについて延々と話しあった。おかげですっかり俳句甲子園に詳しくなってしまった。

理科の生物の単元には暗記すべき知識が無限に出てきて圧倒されてしまうけれども、あらゆる生きものが「進化」というひとつの道筋を歩んでいるという世界観は壮大で面白い。物理からみれば世界はエネルギーの流れであるし、地理を学ぶものにとって世界は地図から読み解かれる。まるで世界が複数存在しているみたいだ。近頃流行りの言い方をすると、マルチバースですね。

小学校で習うカリキュラムは考えつくされていて、世界を理解するための基本的な切り口はほとんどすべて取り揃えられている。

伴走するなかで特に大切さを再認識したのが公民だ。この科目だけは家人と一緒に勉強したのだが、国家という枠組みの精緻さに感嘆させられた。法体系において衆議院が優越していることと、衆議院参議院の組織的な違いはちゃんと連動していたのか……。人権や民主主義を軽視する大人はたくさんいるけれども、みんな小学生の時点で習っているはずなのだ。知識だけを覚えて、その背後にある意味を考えないから忘れてしまうんではなかろうか。

ただ、どうしても分からなかったのは算数だ。学ぶ先に何があるのか、なんだか良く分からなかった。他の科目は、それが発展していった先にどういう研究領域が広がっているのか、何となく想像することが出来るのだけれども、算数だけは謎だった。そもそも数学って、どういうジャンルに分かれているんだろう。数論とか……群論とか……? 名前だけは聞いたことがあるのだが、あれは小学校の算数だとどの辺が入口になっているんだろう。旅人算ニュートン算みたいな小学生限定のやり方が膨大にあって、全体的な見取り図がさっぱり描けなかった。

お手上げだったので、家人には正直に分からないと告白した。お母さんには計り知れないけれども、数学の世界はとっても奥が深くて、まだまだ解き明かされていない謎が一杯あるんだと思うよ。だって、17世紀にフェルマーという人が本の余白に書き込んだ落書きが、330年もの間、誰にも証明できなかったんだから。ラマヌジャンというインド出身の数学者は、定理は女神が教えてくれるって言っていたんだから。

私は数学のことはあまり良く分からないが、数学者のことはちょっとだけ知っている。オタクだからね! 本(『フェルマーの最終定理』)や映画(『奇跡がくれた数式』)がきっかけなのできちんと理解しているわけではないが、いつもロマンだけは感じている。だから、ジョン・ナッシュエヴァリスト・ガロアといった古今東西の数学者の話をした。

考えてみれば、算数に限らず、どの科目についても自分の読書経験に基づくロマンについて語ることしかしていなかった気がする。もちろん、受験勉強において丸暗記を避けることはできないけれども、しばらくしたら忘れてしまうような知識は、薪ストーブの焚きつけみたいなものだ。パッと燃えて、すぐに消えてしまう。長々と燃え続ける広葉樹の太い薪に炎を移していくにはどうしたらいいのか。

これという正解はないのだが、たぶん、その学問のレンズで世界を眺められるようになると、思考という炎は長持ちするんではなかろうか。特別なレンズを通してみた世界の色合いこそが、ロマンなのかもしれない。それは高度すぎて、小学生にはとうてい無理なことかもしれないけれども。だから、私の伴走はいつも同じ結論だった。

あきらめないで学んでいったら、きっと面白いと思うよ。

 

枠を壊してみよう

そういったわけで、あまり効率的とはいえない受験勉強をしてきたのだが、それにしても成果は上がらなかった。ちゃんと勉強して覚えた内容でも、翌日に塾で小テストを受けると全然点数が取れない。家人は緊張していたからと言い訳していたが、やはりもっと暗記を徹底すべきなのだろうか。去年の秋ごろからそういう悩みが増えてきた。

いくら実力に合った学校に通えばいいと言っても、いちおう目標としてきた学校はあるわけで。家人に挫折を味わってほしいわけでもない。もっと寝る間を惜しんで勉強させるべきなのか。でも、小学生のうちから睡眠不足が続くのは体に良くない気がするし……。

転機が訪れたのは去年の秋ごろである。何の気なしに「深呼吸してごらん」と言ったのだ。小テストは10分とか15分とかでやるのだろうけれども、それでも15秒くらい失ったって大丈夫だから。まずは深呼吸してからテストを受けてみたらどうだろう。

すると家人のテスト結果は改善していった。彼は本当に塾で毎回やる小テストですらガチガチに緊張していたのである。まして模試などなおさらだ。実力を発揮するどころではない。

思えば家人は子供のころから怖がりだった。想像力が豊かすぎるのだろう。小さいころはなかなか一人で眠れなかったし、楽しいはずの学校行事もいつも不安そうに出かけていった(帰ってくるときには元気が回復していた)。緊張もまた、怖がることの延長線にあったのだろう。テストが出来ない言い訳だと片づけずに、もっと真剣に受け止めていればよかった。

後悔しても仕方ないので、それからはひたすら緊張を回避する方法を模索した。アスリートの試合前のルーティンみたいに、何か儀礼的な動作をすると良いのではないかと考え、深呼吸をしながら両手を開いたり閉じたりする練習をした。

緊張している、という自分の状態を認識することも大切だと思った。『風が強く吹いている』(三浦しをん著)という駅伝小説に、駅伝ランナーが本番の雰囲気に呑まれ、自分が緊張していることに気づけずにペースを上げすぎて失速してしまうというエピソードがあった。テストも焦っていることに気づけないとミスを連発してしまうのかもしれない。

だから、家人にも緊張していることを自覚するよう促した。あがり症であることは必ずしも悪いことではない。入試本番は、これまで平常心を保って試験を受けてきた子ですら緊張することが多いだろう。彼らにとってそれは初めての経験であるかもしれない。しかし、家人は緊張のプロである。小テストの緊張の100倍緊張することは身体的に不可能でもある。むしろ本番には有利なのではないか。

というようなことを話したところ、それだけで気分が楽になったのか、成績も上向いた。入試時期までに偏差値が10くらい上昇したので、よほど緊張が足を引っ張っていたのだろう。

つまり、このアドベントのテーマである「枠を壊した」のは、私ではなく家人であったという次第である。私はもう、枠の中で惰性で暮らしているので……。がんばって枠を壊した家人を褒めたたえることで代えさせていただきたい。

まあ、ここまで緊張する子は珍しいと思うが、それはそれで家人の美点だと思っている。真剣に取り組んでいる証拠だし、先々のことを想像する思考や用心深さを備えているということでもあるからだ。もちろん、緊張しない子が駄目だということではなくて、物事に取り組むために最初の一歩を軽く踏み出せるのは素晴らしいことである。

「良いこと探し」といえばポリアンナだが、伴走を通じて私が学んだのは、人の良いところと悪いところは裏返しだということだ。そして、相手を深く知れば知るほどその両面が見えてくる。以前よりも少しだけ他者に寛大になったと思うし、それは家人のおかげである。

 

厳冬のジェットコースター

ここまで楽天家の私でも、受験本番はとても大変だった。当日の体調や受験結果に応じて変更できるように、幾つかの学校を併願する組み合わせをプランEまで考えておいたにも関わらず、想定外のことがたくさんあった。

朝早くから試験を受け、結果が分からない状態で励まし、前向きな気持ちを保ちながら午後の試験会場まで移動して送り出す。様々なタスクをこなしながら、家人に対して気丈な態度を示し続けるのは想像以上に難しかった。

今も思い出して反省するのは、試験を受けるときにはある種の抜け目なさが求められるのだということを、しっかりと教えなかったことだ。家人は第一希望の学校の試験で問題をすべて解き終わり、汚い字を書きなおそうと消しゴムで消していたところ試験時間終了のチャイムが鳴り、空白のまま提出してしまったのである。しかも点数配分が高い記述問題の結論の、「ある」・「ない」みたいな決定的な部分を書かないままで。

ちょっとくらいズルをしてもいいんだよ。そもそも「ある」って書くのは3秒もかからないのだから、チャイムが鳴り終えるまでに書き直せるでしょう。それはズルとは呼ばないんだよ。

真面目な家人は、馬鹿正直にチャイムが鳴り始めた瞬間に鉛筆を置いたらしい。

まあ予想通り不合格となった。ちゃんと書き直していたらどうなっていたんだろうな、と今でも考える。過去問では合格最低点はクリアしていたし、もしかしたら……なんてね。他にも大きなミスをしていたかもしれないのだから、考えても詮無いことではあるのだけれども。

結果を知った家人も流石に落ち込んでいた。滑り止めとした第三志望はすでに合格していたし、それはとても良い学校だった。何とか励まして前を向き、第二志望の学校を受験した。偏差値的には第一志望よりも難しかったので、本音を言えば期待しすぎてはいけないと思っていた。それでも、家人には合格できる可能性があることを出来るだけ詳しく説明した。自分の疑念を封じ込んでオプティミスティックな態度を取り続けることが、一番しんどかった。

こちらは補欠の通知が来た。

併願校についてプランEまで作成していたのだが、追加合格の可能性までは考えが及んでいなかった。このままでは来るか来ないか分からない連絡を待つ不安な日々が続いてしまう。待ち続けて、結局は一校しか合格できなかったという結果になるかもしれない。

挫折感をもって4月から新たな学校に通ってほしくなかった。そこで、予定していなかった学校をもう一つだけ受験することにした。落ちても全然構わない。合否は気にせず、とりあえず今までの勉強の成果を試すつもりで受けてごらん。

家人は本当にまったく緊張せずにその学校を受験し、そして合格した。が、補欠だった第二志望の学校からも繰り上げ通知が来たので、結局はそちらの学校へ通うこととなった。

喜んだり、がっかりしたり、結果の見えない不安のなかにいつまでも置かれたり。ジェットコースターのような気持ちのアップダウンを経験しつつ、家人の中学受験は終了した。

 

人生一周目

その後、家人は元気に中学校へ通い始めた。

親としてはこれで子供から手が離せるだろうと思っていたのだが、なかなかそうも行っていない。まず電車通学が難題である。反対方向の電車に乗ってしまったり、たくさんの人が乗り込んでくることに圧倒され、電車から降りられずに乗り過ごしてしまったりして、そのたびに私が慌てている。それでも仲の良いお友達ができたし学校も楽しいというから、頑張ってよかった。

私の七面倒くさい伴走が功を奏したのか何なのか、勉強もそんなに苦行ではないらしい。科目としては数学が一番好きだそうで、時おり自分の好きな定理について熱弁をふるっている。中身はノータッチで数学者のロマンだけを伝えたのが良かったんだろうか。

受験勉強から解放された家人は、興味関心の幅を遠慮なく広げている。ソーシャルメディアやゲームにはまっているかたわらで「十二国記」を全巻読破したり、マーベル映画を一気に鑑賞したりしている。スパイダーマンドクター・ストレンジキャプテン・マーベルが好きなんだってさ。

初めて味わった物語の興奮だけは、二度経験することはできない。しかも、次回作をじりじりと待つことなく、一気に経験することができるのだから、正直言ってうらやましい。定期テストが終わったら、家人は『姑獲鳥の夏』を読むつもりだという。なぜなら、「推しの子」に登場するアクアくんというキャラが幼稚園で読んでいたからだそうな。そんな理由がありえるのか。今から読了した家人の感想を聞くのが楽しみである。(追記。無事に読了しました。こんな話を考えつく人がいるのか……世界の面白い作品を全部摂取するのに人生100年では足りないのではないか、などと申しております)

読書しても別に国語の成績は良くならないが(今も昔も家人の苦手科目です)、この調子で物語に対する体力を身につけていってほしい。それがデマゴギーに抵抗する唯一の方策だと思うからだ。私たちはいつの時代も分かりやすく痛快な物語についつい惹かれてしまう。まして現代はあまりにもたくさんの情報にあふれている。なにが真実でなにがフェイクなのか簡単には分からないし、単純明快なストーリーを選びたくなってしまう。現実の複雑さに音を上げてしまうのだ。

怪しいぞと思うだけの審美眼が身につけられればいいのだけれど。でも、こればっかりは分からない。とても頭の良い人たちが陰謀論者になったり、差別主義者になったりするのも目にしてきたからだ。その人たちだって読書経験は積んでいるのだろうし。

家人が他者を傷つける人間になってしまったらどうしよう。例えば今よりも反抗期が激しくなってきたら、親への反発と中二病が合体して大惨事になることだってあるだろう。逆に他者から傷つけられて世界から閉じこもってしまうこともあるかもしれない。

さらに言えば、家人が高齢者になるころに社会はどうなっているだろう。今から五〇年経っても年金制度はきちんと機能しているだろうか? 災害や戦争のニュースは、今だってこんなにもつらい。それが家人の身に降りかかってきたらと考えるだけで背筋が寒くなる。なにも考えずに生きていたら、今よりも生活は厳しくなっている可能性が高い。

だからこそ、子供にはせめて少しでも良い教育をと願う親御さんが一杯いるのだろう。でも、それが正解なのかどうかは誰にも分からない。

子供を育てていると不安なことばかりだ。

それでも、ストーブの中で踊っている炎から目が離せないように、子供の世界が広がっていくさまには感嘆させられる。それはあまりにもランダムで美しいから、少しでも長く燃え続けられるような材料を提供したいと思ってしまう。

太陽の光をため込んだ、林檎の樹のように。微かな芳香を放つ思索の炎を燃やしていってほしい。

 

炎が安定してきたころ。



アドベントも残りあと二日。終わってしまうのがもったいないような…。

明日の担当は、Nab TOMOIさんです! どんなお話をしてくださるのかな。楽しみ楽しみ。