HDE Advent Calendar 2015

HDE Advent Calendar Day 1: 毎日着物で出勤するようになって一年が経った

HDEアドベントカレンダー2015、今年もやります!(今日の14時頃決まった)

HDEで一緒に働いている人が順番に書く、という以外に特にテーマがないのがテーマ。今年も昨年同様、幅広くちゃんぽん的な連載をお届けしたいと思います。どうぞよろしくお願いいたします。

初日は、毎回クソ長いエントリで有名な私、小椋(HDE社CEO)がトップバッターをつとめさせていただきます!

毎日着物で出勤するようになって一年が経った

去年の9月から毎日着物で過ごすようになって、とうとう一年が経ちました。

この間、海外出張もアメリカ香港などには着物オンリーで行きました。洋服を着たのはドレスコードがある場所に出かけるときなど、礼装しないといけない日に限られ、多分15日ぐらいだったと思います。普通のIT系の人がビジネスカジュアルで出かけるシチュエーションは着物で通しました。

どうなのか。どうしてそうなってしまったのか。そうした結果どうなったのか、よく訊かれることについて書いてみました。

どうなのか

洋服とくらべてどうなのか。結論としては、どうもこうもなく、単に服です。

毎朝着るのが大変ではないか?

よく、毎朝着るが大変ではないか、と訊かれるのですが、さして大変じゃないです。毎日ネクタイを締めるのに慣れる程度の大変さ。着るだけです。

お手入れが大変じゃない……?

お手入れが大変じゃないですか……?とも訊かれますが、これまたさして大変じゃないです。洋服でも、アンダーウェアとか長袖Tシャツは毎回洗うけど、ジャケットは毎回洗わないですよね。そしてワイシャツは毎回洗ってアイロンかけますよね。だいたいそんな感じです。

大きな声では言えませんが、ジャケットに相当するものも家で洗っちゃったりもします。

さらに、自分は礼装はスーツなので、高い着物は着ません(基本的には、着物もビジネスカジュアルの一つと捉え、ビジネスカジュアルでOKなところにしか着物では行かない。冠婚葬祭は洋服)。ゆえにクリーニングも滅多に利用せず、お金もかかりません。

でもお高いんでしょう……?

でもお高いんでしょう……?と思われがちですが、さしてお高くありません。高いスーツよりもずっと、高い着物は高いと思います。が、女性向けのマーケットと異なり、いまや全く誰も着ない男性用着物は完全に供給過多であり、ヤフオクやリサイクルショップにあふれています。

絹それ自体は虫も食わないので、もともと何十年と長持ちする類の服を、ちょっと前まで何千万人の男たちが何着ずつ所有したり、着ずに大事に箪笥に保管したりしていたせいで、供給は溢れているのです。

その一方で、買い手は僕ぐらいしかいません。そのため、安い着物は安い洋服と比較しても異次元に安いのです(自分が気に入っているよく着ている長着はリサイクルショップで見かけた「籠に詰め放題100円」みたいなので買った)。

そして僕は高い着物はまだ着てません。よってお高くありません(ここで僕のタンスの総額を開帳するのは恥ずかしいので、興味がある人はこっそり訊いてください)。

寒くない?/暑くない?

寒くないですか?/暑くないですか?とも訊かれます。ここは否定できないポイントです。

着物は、日本人がみんな風通しがいい建物に人が住んでいた頃にあわせてできた格好であり、気密性が高く、屋内で風が吹かない現代の建物の中では、基本的には暑く感じます。よくわかりませんが、たぶん着物はクリティカルな部位は保温しつつ、その他の部分は湿気がこもらないように風が通る構造になっているのだと思います。

夏は外にいると、暑いながらそれなりに心地良いですが、部屋に入って風がなくなると急に暑くなります。冬は外や、俺んちのような隙間風だらけの木造家屋だとちょうどいいですが、オフィスビルだと急に暑くなります。

ですがそれも慣れれば、要は、普通の冬の「伝統的な格好」とされている格好から1~2段階薄く調節すればいいので、特に問題ありません(秋には夏の、冬には秋の格好をする)。朝天気予報を見ながら、格好を選ぶのがそれなりに大変ですが、毎日洋服を選ぶのと同じぐらいの苦労だと思います。

そんなわけで、一旦着物生活に切り替えてしまえば、所詮服なので、全く問題ありません。むしろ今日は足袋・褌、明日は靴下・パンツと、切り替えが入るサイクルを管理するのが面倒なので、結局毎日着るようになりました。

そんなわけで、毎日着物でも全然行けます!興味のある人は、是非チャレンジしてみてください!ブログのネタぐらいにはなりますよ!

 f:id:goura:20151201221858j:plain “Japanese Mission Sphinx”. Licensed under パブリック・ドメイン via ウィキメディア・コモンズ — https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Japanese_Mission_Sphinx.jpg#/media/File:Japanese_Mission_Sphinx.jpg

どうしてそうなってしまったのか

小学校1年まで普通のアメリカ人として育った自分は、その時点では日本語は主に母が怒ったときに耳にする言葉で、ほとんど意味がわからなかったし、精神構造や味覚、好みも完全にアメリカ人の子供でしたが、日本に移住してきて日本の小学校に入り、いろいろな部分を修正した結果、幸運にも20歳ぐらいまでには順調に日本大好き、日の丸君が代大好きな健全な保守主義者の普通の日本人に育ち、平和に暮らしていました。

会社で英語が必要になった

一方そうしているうちに、2013年頃になって、大学生の頃から15年近く自分が経営してきたうちの会社(HDE)で英語が必要になりはじめました。説明は省きますが、技術面でも、採用面でも、マーケティング面でも、営業戦略面でも、日本語が通じる世界に活動範囲を限定していては、遠くない将来、袋小路に迷い込むのは明白でした。

当社もグローバル化を進めなければ明るい未来が無いかもしれない。15年間一度も考えたことが無かったことを、いよいよ考えなければいけない事態になってしまったのです。あるいは、自分の中の俺ナニ人コンプレックスが、本当はもっと前から考えるべきだったことから目をそむけさせていたのかもしれません。グローバル化を進めるためには、当然英語が必須だから、社内の英語化、英語教育も進めていかなければいけないという状況になりました。

しかし、30年間、意識して生まれのハンデを塗り替えようと、日本大好きを続けてきた自分にとっては、英語で話すこと、英語を肯定することは、激しいストレスを伴いました。このストレスの正体については、後で着物を着るようになってやっと冷静に向き会えるようになったのですが、当時はよくわからず、とにかく自分たちは純日本的な存在でありつづけたい、俺は英語は話したくない、としか思っていませんでした。

今振り返るとおそらく、自分が日本人としても、アメリカ人としても不完全な存在となることについての抵抗だったのだと思います。「英語を話す、日本人のなりそこない」は、自分ががんばって日本に適応する前の、小学生の頃の自己認識そのものですし、かといって、自分はアメリカに行って普通に通用するほど英語も達者ではないんです(よく、海外生まれなのだから英語はさぞお得意でしょう、と言われるのですが、日本に来たのは6歳の頃なので、「ネイティブ」的な力は6歳児レベル)。

当時は、企業が英語を公用語化したりするような話については、民族の尊厳に対する冒涜だと思っている節すらあって、自分の会社がそんな風になるのは感情的に許せませんでした。感情的に許せないので、人心が離れるとかなんとか、いろいろ理屈を付けて遅らせました。今思うと自分のコンプレックスのせいで、会社の戦略上の判断と、自分の好みを分離できなかったのだなと、反省しています。

経営陣による英語化の推進

一方で、現実に英語が必要な局面がどんどん拡大していくにつれ、自分では英語が嫌いなのに、業務を英語に切り替えていくためにはどうしたらいいか、ということを真剣に考える、完全に自己矛盾した状況に陥りました。ありがたいことに、当社は自分一人によるワンマン経営ではなく、割とタイプの違う取締役3人で運営されています。誰かが感情に流されたとしても、あるべき方向に進路を取ることができるのがささやかな自慢です。

僕が必要だ、だけど不要だ……とか混乱した態度を取っている中、今後必要となるであろう英語力強化に向けての方針は粛々と話し合われ、まずは幹部全員でTOEICを受験し、今後の英語力向上の方針を立てようという方向にまとまりました。自分は「えー?TOEIC……?やるの?う~ん…」と唸ってみたものの、会社の置かれている現状を考えれば、当然取るべき施策だったので、「う~ん」と口に出して唸ってみた瞬間に、特に反対する理由が無いことに気づき、我に返りました。

そのうちに英語公用語化を決めると、思った以上にいろんなことがトントン拍子に進み始めました。……と思ったら、そのうちにトントン拍子ではなく、「変化」が濁流のように押し寄せて来ました。英語での面接すらままならない状況の中、日本語が話せない優秀な人材が世界中の様々な国からどんどん来るようになり、彼らは当然のように母国語に加えて英語を話しました。

海外出張も増えました。ベトナムシンガポール、台湾、香港、中国、インドネシア、フィリピン、マレーシア、タイ、ドバイ、ドイツ、アメリカ……円以外の通貨で見積もり書を発行できない会計システムにも関わらず、日本以外からの引き合いも来はじめ、そのうちにポツポツ売れはじめました。この濁流に流されないよう、必死でセブ島留学制度(一ヶ月セブ島で勉強させられる)・Skype英会話支援制度(Skype英会話全額補助)・会社でのTOEIC集団受験など、社員の英語学習を徹底応援する体制を構築するとともに、近隣のモスクを探すなど、海外から様々な風俗・習慣を持った社員を受け入れる体制が整いはじめました。英語で開かれる社内会議も少しずつ増えていきました。わずか1年余りの間に起こった変化です。

その頃までに自分も、隗より始めよ、の精神で、書き言葉としての日本語を封印することを宣言し、会話こそは日本語でするものの、社内向けのスピーチや発表などは英語でするようになっていました。

摩擦を受容するこの方向転換の全てがうまく行ったわけではなく、こうした変化の中で、社員の中には、離れていく人もいました。中には、理屈ではわかるが、英語化に形から入ろうとすることに感情的についていけないのだ、という人もいました。自分も痛いほど気持ちがわかるだけに、うまく説得しきれず、自身の葛藤はさらに募りました。とはいえ、総合的に見て会社のグローバル化は、比較的うまいスタートを切ったと思います。反面、自分の内面は極めてストレスフルな状態でした。

着物との出会い

そんな折、本荘修二さんさんに、Kazumi流着物の津田恵子さんが主催する「浴衣を着る会」にご招待いただきました。日本っぽい物に飢えていた自分は、二つ返事で参加し、会への参加にあたって、はじめて浴衣を購入しました。これが2014年の7月。

会では、普通に洋服を着ていた参加者たちが、浴衣を着ると見違えるようにかっこよくなる様子を体験し、日本人に着物が似合うことを再確認しました。また、なんとなく「着るのが難しい」「クソ高い」と思い込んでいた着物も、実はそうでもないということを学びました。着物は何か行事があるときに着る特別な服だと思っていたから、津田さんが年中着物を着ている、という話も衝撃的でした。そんなことが可能だとは思いもよらなかったので。

そんな流れで、お盆だから、ということで、軽い気持ちで、買った浴衣を会社に着て行きました。すると、とても気持ちがよかったのです。気持ちが良かった理由には、もちろんいろんな人がかまってくれるとか、歩いていて風が通るのを感じるとか、そういった理由もあったのですが、それだけではない意外な心地よさもありました。

英語を話し、英語を推進している自分が、不思議と嫌でなかったのです。

浴衣を着ている自分は、洋服を着ている他の日本人よりも「より日本人らしい」と自信が持てる。僕は不完全な英語を話す「日本人」であり、アメリカ生まれの日本人の成り損ないではない。帰国子女だから英語が話せるだろう、というようなプレッシャーも広い心で受け流せます。「日本人」側に完全にポジションを固定することができるのです。

つまり、着物を着ていれば、ストレス無く英語が話せる。このときはじめて、英語を話すときに感じる自分の心のしこりは、自分のアイデンティティに関連するものだと気づきました。 これが去年の8月頃。なんだ、着物を着ていれば悩まなくてもいいんじゃん、と気付き、とりあえずしばらく浴衣を着ることにしました。

もちろん、その他のメリットもありました。まず、目立つ。外国人の来訪者が、顔(というかattire)を覚えてくれる。そしてなんか特別なもてなしをしてくれていると勘違い……もとい、認識してくれる。社員に対しても「英語化を進め、急速に海外人材が増えている当社だが、これまで培ってきた良さを活かしつつグローバル化するつもりである」というメッセージをわかりやすく伝えることもできると思いました(※ただし思ったほどわかりやすくは無いらしい)。

着物で海外出張

数ヶ月先に控えていたラスベガスでのイベントre:Invent への出張。実は、IT業界の経営者にもかかわらず、米国出張はもう10年以上文字通り「敬遠」していました。文字通り、機会があっても行かないようにしていました。多分前回行って、滞在一週間ぐらいから英語が少しずつ達者になりはじめる自分が何者かよくわからなくなって以来、米国あるいは海外に行くことに対する、理由の無い正体不明の抵抗があったのだと思います。しかしその正体がわかってしまえば話は早い。着物で行けばいいのです。

米国に着物を着て行くと、自分の中で何かが変わる気がしていたので、アメリカに着物を着ていくことをゴールに設定し、出発する日までに毎日和装をしてみて、足りないものを揃えながら訓練を積みました。

ラスベガス出張については別途ブログを書いたので詳細は省きますが、一切洋服を持って行かないというルールを敢行しました。万が一のために一応洋服も……とも思ったのですが、もし洋服を持っていけば、きっと途中でweird lookの嵐に屈して洋服を着てしまい、英語で話しているうちにアメリカを遠い祖国・故郷として認識しはじめ、そこに溶け込めない自分に対して複雑な感情を持つだろう。そう思ったのです(ちなみに実際には洋服など無くても何ら問題は無かった)。

いざ着物と風呂敷でいざラスベガスに行くと、アメリカの方々にはとにかく完全に異民族扱いしていただき、英語が話せるのが意外!というスタンスで接していただけたので、とても気楽でした。おかげで故郷ではなく、外国として訪問することができました。

……で、帰ってきて、いろいろ開き直りました。

第一に着物がより好きになりました。アメリカにも行ける程度には実用的!

第二に、確実に日本人であるという心地よさから離れたくなくなりました。

第三に、外国人受けが良いというメリットを捨てたくなくなりました。使えるものは全部使わないと。

とにかく着物を脱ぎたくなくなりました。

結果どうなったのか

で、それから結局、ずっと着物を着ています。

上述した「変化」の中で、世界中からやってくるメンバーと話す機会が増えると、日本人みたいに「すっぱり日本人」みたいなのが多数派なのはむしろまれなケースで、世界の民族事情は私が体験してきたことよりもずっと入り組んでおり、自分のコンプレックスなど取るにたらない、ちっぽけなものだと気づきました。するとより自然に自分の出自や日本、アメリカ、英語に対して向き合えるようになりました。

のんびり自分らしく過ごせるようになったことは、本当に一生の財産だと思います(とはいえ、しばらくはアメリカには着物で行き続けると思う)。

30年間封印してきたリッチーという英語名も復活させ、積極的に名乗るようになりました。相変わらず自分は日本が大好きで、着物も大好きです。アメリカも大好きだし、英語を話すのも大好きです。帰国子女で原因不明の英語恐怖症がある人がいたら、オススメします。

ところで、ちゃんぽん、と多分語源を同じくする、チャンプルという言葉が、マレー半島方面でも使われているということを、最近知りました。どこかに語源があるのか、それとも各民族がたまたま同じように混ざることをch-prという子音で表現しようとしたのかは知りませんが、奇遇なことです。

会社では、社長である私や、メンバーの精神的なタガが外れたことも一因となり、「変化」を当然のこととして受容し、楽しみながら消化する文化が定着しようとしています。会社は10%近くが日本国外出身のメンバーになるなど、20周年を目前に、世界各国の様々な文化を取り込み、まさに大チャンプル時代を迎えています。

変化に強い会社になって、競争力が向上している、という言い方もできるのですが、僕は会社が外資系でもない、純日本企業でもない、何者かに変わろうとしているこの状況が、とにかく楽しいです。まだスタートしたばかりですが、我々なりのちゃんぽんの形を探し続けたいと思います。