ハテヘイ6の日記

ハテヘイは日常の出来事を聖書と関連付けて、それを伝えたいと願っています。

湯浅誠さんが内閣参与となってから考えた事

 図書館で湯浅さんの近著『ヒーローを待っていても世界は変わらない』を借りて読みました。これまで何冊か著書を読んで来て、貧困問題に真摯に取り組んでいる湯浅さんを尊敬し、何とかお手伝い出来ないものかと思っていましたが、私自身その拠点まで行く交通費が出ない貧者なので、とにかく心の中で応援していました。
 そうした中、日本で最も難関の東大法学部を出ながら、その恵まれた境遇を捨てて、こうした世界に飛び込んだわけを知りたいと思っていましたが、今度の本で或る程度推察出来ました。

 湯浅さんのお兄さんは筋萎縮性の難病を持っていて、身体障害者手帳の1級を持っています。一人で自立した生活は困難で、湯浅さんはそうした社会的にハンディを持った兄を身近に見ながら育ちました。それは社会的弱者の為の活動の一動機となるでしょう。
 次に湯浅さん自身の事ですが、名門私立武蔵高校を出て浪人し東大法学部に入りました。父親が日経新聞の正社員、母親が小学校の先生という事で、全く経済的困難はありませんでした。でも湯浅さん自身は自分の努力で合格出来たとずっと思っていました。転機はホームレスの人々との付き合いからしばらく経過して生じました。つまりこれまで自分で努力しさえすれば、どんな道も開かれる、どんな大学どんな企業でも入れるという価値観が支配していたわけですが、現実を見ると東大にしても圧倒的に年収1千万以上の裕福な家庭環境で生まれ育っていない限り、ほとんど努力のみでは合格不可能という過酷な現実が存在し、予備校などの調査もそれを裏打ちしています。
 ですからそれに全く無知だった自分を「恥ずかしさの感覚」と共に思い出し、以後全ては努力次第で切り開かれるといった言い方を、湯浅さんは「永遠に消し去り」ました。
 次にこの本の特色ですが、内閣参与の3年間の経験が生かされています。湯浅さん自身が「これは民主主義についての本である」と前置きして展開しています。
 湯浅さんが抱いている「民主主義」とは、「何よりも、おそろしく面倒くさくて、うんざりするシステム」で、そうした表現が随所に出て来ます。とても手放しで礼賛出来るようなシステムではありません。でも湯浅さんは「誰かに任せるのではなく、自分たちで引き受けて、それを調整して合意形成していこうというのが、民主主義というシステムです」と言っています。そういう認識を皆が共有しないといけません。
 日本には1億2千万の人々がいて、それぞれ切実な必要を抱えて生きています。その中には多様な「既得権益」を持った人々がいて、利害対立は鋭く、私たちは自分と異なる意見を持っている人のほうが遥かに多いという事実を前提に、「最善を求めつつ、同じくらいの熱心さで最悪を回避する努力をすることが必要です」。貧困問題をとっても、一対九の世論では何も動きません。それを他人任せでなく、自ら動いて少しでも二対八、いやそれ以上に持って行って、政策を実現させる努力が必要です。ところがこの利害調整という、途方もなくうんざりする面倒くさいシステムを運用する長い時間を待てずに拒否し、「強いリーダー」を待望する気運が急速に高まっています。
 それは又「既得権益」に切り込む力を持った人という事にもなります。誰にも生活の為に必要があり、それを尊重するのは「善」であるけれども、それを「既得権益」と言い換えると、途端に「悪」に変貌してしまう事があります。既得権益という名のもとに、生活の最小限の必要を感じている人が切り捨てられてゆく事が起こりえます(湯浅さんのお兄さんのように)。そこら辺を慎重に見極めないと、たとえ「強いリーダー」が登場しても、基本的には何も変わりません。そうした風潮の中で「自分たちは要求する、しかし調整はしない」=「誰かが調整してくれ、ただし、自分の要求を通すように」ということになると、もうむちゃくちゃです。
 それゆえ「強いリーダーシップ」を発揮するヒーローを待望するのは、「民主主義の空洞化・形骸化」に繋がります。問われているのは私たち一人一人です。
 新約の時代聖書地はローマ帝国の属領で、税もそこに納めなければなりませんでした。しかも中央には学者・パリサイ人といった「既得権益」にすがり、民衆を全く無視している一派がいました。民衆の鬱屈は募り「強いリーダー」を待望していました。そこに現れたのがイエス・キリストです。キリストは学者らの既得権益を崩し、民衆の様々な必要に応えておられました。そして忌まわしい上記学者・パリサイ人らを激しく非難されました。
 「また、重い荷物をくくって人々の肩にのせるが、それを動かすために、自分では指一本も貸そうとはしない。そのすることは、すべて人に見せるためである。すなわち、彼らは経札を幅広くつくり、その衣のふさを大きくし、また、宴会の上座、会堂の上席を好み、広場であいさつされることや、人々から先生と呼ばれることを好んでいる。」(マタイ23:4−7)。
 しかし九対一の力関係を壊し、民衆の支持を得たイエスは「この世のヒーロー」ではありませんでした。すべての民の罪を負って十字架で死なれました。しかし復活し、今天におられます。次に来られる時は真のヒーローとしてです。この方のもとで全ての民は自由・平等。差し迫るような必要事は何一つありません。一方学者・パリサイ人らは厳しく罰せられます。