2010年 02月 13日
中村うさぎ著「狂人失格」の感想です。 |
さてさて、中村うさぎ著「狂人失格」についての感想を
書きますかねえー。
本の論評ではなく、
カウンセリングの観点から書きます。
中村さんに関する情報は娘からの・買い物依存症であることと、
昨夜、知人から頂いたメールで知った、顔や身体を整形したり
ホテトル嬢をやったりしながら、エッセイを書いている作家
そして私が見たテレビ「我らの時代」での
デラックス松子さんたち三人との対談の様子だけです。
できるだけ先入観を廃して、感想を書きます。
読み終えて、まず
こりゃーたいへんダワ!と思いました。
テレビの時に感じたように
「自他の分離」ができていないため
インナーチャイルドが暴れまくっている。
本を読んでみえてきた光景は
とてもひたむきに生きている一人の女性がいること。そして
本人は偽悪に振舞っているけれど
その閉じて自己完結した内面の中では
縛りから抜け出して奔放に生きようとするチャイルドを
正義や倫理をたてに常に
自分を検閲し断罪するペアレンツがおり、その
自虐的パワーゲームの緊張が常に彼女の内側で
堂々巡りをしています。
本の中に出てくる彼女=”私”と
もう一人の主人公"優花ひらり"は
彼女の裏表のように自立しておらず、
二人ともが分離不安のなかで
出口なく循環しています。
”私”のほうは自分を卑下し、嫌い憎み、それを他者に投影して
もがいているが、自分を卑下し憎み嫌っている限り
自立しなくてもいいという無意識の他者依存があり、
”優花”のほうは、自分を閉じてしまい現実殻逃避し、
自分に都合のよいように現実を編集した仮想現実の砦のなかで
生きているシャドウで、
小説内では自意識がないように描かれているが、
とんでもないことで
こういう人間は従順に生きているその閉じた世界の裏側では
強烈な自意識パワーと攻撃力を
育てているもんです。
二人ともが分離不安の中を生きているために
”私”のほうは常に他者からの介入を許している状態で
自分が生きている実感に乏しいため、過剰な行動や装飾を
自分に施し刺激をもとめる。
もう一人の方も現実を逃避しているため、
同様に自分の生きているという生々しい実感に欠け
うわすべりする世界で自慰的に生きている。
ああー
たいへんですねえ・・。
だいたい自分が惹かれるというのは、
何らかの形で自分の分身的要素を持っている人間で
小説のなかで"私”は自分なりに正論的なものを組み立てて
”優花”にアプローチしていきます。
これも分離していないため
本人は気づいていないが
外的世界を自己同一化してしまい
客観的世界がほんとうは見えていないため、
自分の価値と都合で相手を量り、
コントロールしようとするが
相手はその範疇を超えて生きているため、
当然想定を超えますから
最後はさじを投げてしまいます。そして
自分の行為を合理化することばで
理論武装を図ります。
うかつに相手に声をかけた自分を反省しますが
その返す刀で、自分を被害者のように仕立てていきます。
ほんとうは、自分こそ客観性にかけているのに。
客観性に欠けているから、
過剰の自意識が働くということを
理解しえていないですよ・・・うさぎさん!
小説の途中までは、かなり軽快に文が運ぶのですが、
最後のフィナーレは、かなり混乱がおきているように
思えました。
つまりほんとうは現実に起きていることを
理解し得ない”私”がいるのだが、
そこが見えないのに、
必死でそれを説明しようとする無理があるように
感じました。
小説の冒頭に出てくる「豪快オヤジ」という彼女の分身は
まぎれもなく
いつも自分をごまかし続けている人格で
その人格を操りながら現実をしのいできたのでしょう。
"私”という作家の背中にいつも他者の人格が
張り付いている状態=自他の不分離は
常に自分と言うミクロコスモスのなかで
心理の底の底の方に自分が抑圧され
その上の空中を
他人の仮面のを被った人格が飛び回りながら生きるという
とても苦しい世界です。
多くは親との分離ができず
または幼児期に自分を心理支配していた人間からの
呪縛が解かれず
たいへん苦しみます。
読み終えて最後に経歴を見たときもう
52歳になられるのですね。
テレビで見たときはバニーガールのような格好をされていたので
もプ少し若い人かと思いました。
随分ながく苦しまれているのでしょうか。
まあこの本は作家のおおいなる創造かもしれませんね。しかし
悪戯に閉じられた自己防衛の世界から抜けない、或いは
抜ける勇気を持たない人たちの
弁明のようにも思えます。
もし自他の分離ができていたら
さらりと
[あなたは、そうなのですね。」と
相手を全肯定し
翻って
[私はこうなんです。」と
自分も全肯定する世界観で生きて行きます。
「どうしてあなたはそうなの・・。」とか
「なぜあなたは・・・・なの・・。」という
自分側からの価値観で他人を裁きません。
そういう他者に対する距離と突き放しがあって始めて
人間は時に共感したり、共存したりするという
他人を受け入れることが可能ななかを
生き抜いていきます。
他人と全く異なる「自分という基盤」が磐石でないと、どうしても
他人に依存したり
介入させたりして、自我が弱体し混乱してしまいます。
人生はたくさんの出会いと経験をつみながら
自分と言う人間の礎を打ち立てていくプロセスです。
自分を追い詰め深刻にさせているのはまさに
自分自身であり、
自分と向き合い、勇気をもって自分を変えていけば
人生はもっと生き易くなります。
この本の文章は時に下品や下卑た自己攻撃的表現が
あるものの、それでも
過剰に相手説得しようとする”支配欲”は
感じられませんでした。
おそらく作者の底の底ほうには
清らかに澄んだ水が流れていると思います。
その澄んだ水に自分を映すから
自分を裁かずにはいられないのでしょうが、
その清らかな水を呑みながら
澱んだ水を濾過していけるといいですね。
山の麓にある澱んだ水も
山頂にある澄み切った水もどちらも
大切でとうとい自分だと
受け入れられるといいですね。
まあ
こんこんなところですか・・。
最後に自分が自分に復讐されることなど
ありえません。
あるとしたらそれは
自分を脱出する勇気のない人の
自慰行為です。
では。
書きますかねえー。
本の論評ではなく、
カウンセリングの観点から書きます。
中村さんに関する情報は娘からの・買い物依存症であることと、
昨夜、知人から頂いたメールで知った、顔や身体を整形したり
ホテトル嬢をやったりしながら、エッセイを書いている作家
そして私が見たテレビ「我らの時代」での
デラックス松子さんたち三人との対談の様子だけです。
できるだけ先入観を廃して、感想を書きます。
読み終えて、まず
こりゃーたいへんダワ!と思いました。
テレビの時に感じたように
「自他の分離」ができていないため
インナーチャイルドが暴れまくっている。
本を読んでみえてきた光景は
とてもひたむきに生きている一人の女性がいること。そして
本人は偽悪に振舞っているけれど
その閉じて自己完結した内面の中では
縛りから抜け出して奔放に生きようとするチャイルドを
正義や倫理をたてに常に
自分を検閲し断罪するペアレンツがおり、その
自虐的パワーゲームの緊張が常に彼女の内側で
堂々巡りをしています。
本の中に出てくる彼女=”私”と
もう一人の主人公"優花ひらり"は
彼女の裏表のように自立しておらず、
二人ともが分離不安のなかで
出口なく循環しています。
”私”のほうは自分を卑下し、嫌い憎み、それを他者に投影して
もがいているが、自分を卑下し憎み嫌っている限り
自立しなくてもいいという無意識の他者依存があり、
”優花”のほうは、自分を閉じてしまい現実殻逃避し、
自分に都合のよいように現実を編集した仮想現実の砦のなかで
生きているシャドウで、
小説内では自意識がないように描かれているが、
とんでもないことで
こういう人間は従順に生きているその閉じた世界の裏側では
強烈な自意識パワーと攻撃力を
育てているもんです。
二人ともが分離不安の中を生きているために
”私”のほうは常に他者からの介入を許している状態で
自分が生きている実感に乏しいため、過剰な行動や装飾を
自分に施し刺激をもとめる。
もう一人の方も現実を逃避しているため、
同様に自分の生きているという生々しい実感に欠け
うわすべりする世界で自慰的に生きている。
ああー
たいへんですねえ・・。
だいたい自分が惹かれるというのは、
何らかの形で自分の分身的要素を持っている人間で
小説のなかで"私”は自分なりに正論的なものを組み立てて
”優花”にアプローチしていきます。
これも分離していないため
本人は気づいていないが
外的世界を自己同一化してしまい
客観的世界がほんとうは見えていないため、
自分の価値と都合で相手を量り、
コントロールしようとするが
相手はその範疇を超えて生きているため、
当然想定を超えますから
最後はさじを投げてしまいます。そして
自分の行為を合理化することばで
理論武装を図ります。
うかつに相手に声をかけた自分を反省しますが
その返す刀で、自分を被害者のように仕立てていきます。
ほんとうは、自分こそ客観性にかけているのに。
客観性に欠けているから、
過剰の自意識が働くということを
理解しえていないですよ・・・うさぎさん!
小説の途中までは、かなり軽快に文が運ぶのですが、
最後のフィナーレは、かなり混乱がおきているように
思えました。
つまりほんとうは現実に起きていることを
理解し得ない”私”がいるのだが、
そこが見えないのに、
必死でそれを説明しようとする無理があるように
感じました。
小説の冒頭に出てくる「豪快オヤジ」という彼女の分身は
まぎれもなく
いつも自分をごまかし続けている人格で
その人格を操りながら現実をしのいできたのでしょう。
"私”という作家の背中にいつも他者の人格が
張り付いている状態=自他の不分離は
常に自分と言うミクロコスモスのなかで
心理の底の底の方に自分が抑圧され
その上の空中を
他人の仮面のを被った人格が飛び回りながら生きるという
とても苦しい世界です。
多くは親との分離ができず
または幼児期に自分を心理支配していた人間からの
呪縛が解かれず
たいへん苦しみます。
読み終えて最後に経歴を見たときもう
52歳になられるのですね。
テレビで見たときはバニーガールのような格好をされていたので
もプ少し若い人かと思いました。
随分ながく苦しまれているのでしょうか。
まあこの本は作家のおおいなる創造かもしれませんね。しかし
悪戯に閉じられた自己防衛の世界から抜けない、或いは
抜ける勇気を持たない人たちの
弁明のようにも思えます。
もし自他の分離ができていたら
さらりと
[あなたは、そうなのですね。」と
相手を全肯定し
翻って
[私はこうなんです。」と
自分も全肯定する世界観で生きて行きます。
「どうしてあなたはそうなの・・。」とか
「なぜあなたは・・・・なの・・。」という
自分側からの価値観で他人を裁きません。
そういう他者に対する距離と突き放しがあって始めて
人間は時に共感したり、共存したりするという
他人を受け入れることが可能ななかを
生き抜いていきます。
他人と全く異なる「自分という基盤」が磐石でないと、どうしても
他人に依存したり
介入させたりして、自我が弱体し混乱してしまいます。
人生はたくさんの出会いと経験をつみながら
自分と言う人間の礎を打ち立てていくプロセスです。
自分を追い詰め深刻にさせているのはまさに
自分自身であり、
自分と向き合い、勇気をもって自分を変えていけば
人生はもっと生き易くなります。
この本の文章は時に下品や下卑た自己攻撃的表現が
あるものの、それでも
過剰に相手説得しようとする”支配欲”は
感じられませんでした。
おそらく作者の底の底ほうには
清らかに澄んだ水が流れていると思います。
その澄んだ水に自分を映すから
自分を裁かずにはいられないのでしょうが、
その清らかな水を呑みながら
澱んだ水を濾過していけるといいですね。
山の麓にある澱んだ水も
山頂にある澄み切った水もどちらも
大切でとうとい自分だと
受け入れられるといいですね。
まあ
こんこんなところですか・・。
最後に自分が自分に復讐されることなど
ありえません。
あるとしたらそれは
自分を脱出する勇気のない人の
自慰行為です。
では。
by denshinbashira
| 2010-02-13 12:25
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