水伝は非科学的とは言えない

美しい言葉を書いて見せると水の結晶が美しくできる。この主張に対して水に視覚があるのかとか部分的に問題を分解して間違いを指摘しても全体的な実相は見えない。ここでは美しい文字を書いたと認識した人間がいてその人間がその水は美しい結晶ができるはずだと思っている事が肝要なのである。では思いが通じて水が美しい結晶ができるのかというとそう単純ではない。これはサイコロを振って1が出るように念じると1が出る確率が上がるのかという問題に通じるものがあるだろう。これは印象としてはあり得る話である。なぜなら振った人間にとって1は特別な意味を生じるからである。他の2〜6が出た時より1が出たとき特別な印象が残るだろう。そのとき自分の思いが通じたからだと思うのは本人の勝手である。それを続けていると1が出た時は他の数字が出た時より印象が強く残るので例え1/6の確率でも1が強く印象に残っている。それで本人が1が多く出たと思うという事はあり得る。これを氷の結晶に当てはめれば美しい結晶ができるからくりもわかるだろう。
 記録を取ってみればそんな間違いすぐわかるだろうと言うかもしれない。しかし記録をとる取らないは本人の自由であるはずだ。本人が1が沢山出たと思ったらそう主張する事は何も問題はない。そんなのは科学的ではない? 仕方がないのでここで観測者問題を導入する事にする。記録を取らなかった場合と記録を取った場合では実験結果は同じにならないかもしれない。これでどうだ。同じにならないとすれば頻度の観測は観測者の印象にしか頼れない事になる。これじゃ観測者はいるのだから観測者問題じゃなくて記録者問題だな。記録者が存在すると対象に作用すると。
 しかし記録を付けなかった時と記録を付けた時の実験が全く同じ結果を返すとは証明できないはずである。なにせ比較する記録がないのだから。類推する事はできるか? ここでは記録を付けない時を問題にしているのだから記録を付けた時のデータは何件あっても役に立たないのである。というわけで水伝は一概に非科学的であるとは言えないという主張でした。
終わり。