「エリートパニック」についてのメモ

 レベッカ・ソルニットの『災害ユートピア』を改めて読んでいる。

 元々は「被災地をめぐる哲学対話」というシンポジウムの関連企画として、この本を読むイベントを開催しようと準備していたが、新型コロナウイルスの影響でイベントを中止することに決めた。奇しくも、今読むと色々なことを考えさせられる。

『災害ユートピア』は災害時に現れる即席のコミュニティと人々の連帯について描いた本であるが、同時に「エリートパニック」という言葉を広めたことでも有名だ。ソルニットは災害時に起こる「パニック」について以下のように記している。

地震、爆撃、大嵐などの直後には緊迫した状況の中で誰もが利他的になり、自身や身内のみならず隣人や見も知らぬ人々に対してさえ、まず思いやりを示す。大惨事に直面すると、人間は利己的になり、パニックに陥り、退行現象が起きて野蛮になるという一般的なイメージがあるが、それは真実とは程遠い。二次大戦の爆撃から、洪水、竜巻、地震、大嵐にいたるまで、惨事が起きたときの世界中の人々の行動についての何十年もの綿密な社会学的調査の結果が、これを裏づけている。

けれども、この事実が知られていないために、災害直後にはしばしば「他の人々は野蛮になるだろうから、自分はそれに対する防衛策を講じているにすぎない」と信じる人々による最悪の行動が見られるのだ。(pp.10-11)

本書では「最悪の行動」の例として、サンフランシスコ大地震において民衆の暴徒化を恐れた兵士が一般人を銃撃した事例や、関東大震災における朝鮮人や社会主義者への襲撃、ハリケーンカトリーナの際に見られた黒人への暴力や差別の事例などがあげられている。これらは一見「パニック」が引き起こした典型的な事例のように思えるが、いずれのケースでも悲劇を招いたのは民衆ではなく、権力を持つ側、例えば公的機関やメディアなどが「恐怖に駆られて、彼らの想像の中にのみ存在する何かを防ごうとし、行動に出」た結果であるというのがソルニットの主張だ。

災害社会学者のキャスリーン・ティアニーは「エリートは、自分たちの正当性に対する挑戦である社会秩序の混乱を恐れる」と述べ、このような事態を「エリートパニック」と表現した。その中身は「社会的混乱に対する恐怖、貧乏人やマイノリティや移民に対する恐怖、火事場泥棒や窃盗に対する強迫観念、すぐに致死的手段に訴える性向、噂をもとに起こすアクション(p.172)」であるという。「エリートパニック」はラトガース大学教授のカロン・チェスとリー・クラークの造語であるらしいが、本書ではクラークの言葉が紹介されている。

カロンが言ったのです。『普通の人々』がパニックになるなんて、とんでもない。見たところ、パニックになるのはエリートのほうよって。エリートパニックがユニークなのは、それが一般の人々がパニックになると思って引き起こされている点です。ただ、彼らがパニックになることは、わたしたちがパニックになるより、ただ単にもっと重大です。なぜなら、彼らには権力があり、より大きな影響を与えられる地位にあるからです。彼らは立場を使って情報資源を操れるので、その手の内を明かさないでいることもできる。それは統治に対する非常に家父長的な姿勢です。(p.175)

災害時に民衆がパニックになり暴徒と化すという「パニック神話」は、ホッブスの「万人の万人に対する闘争」のイメージにも似ているが、その神話は災害を描いた映画などにおいて、今でも健在である。しかし実際にはこのイメージは思い込みに過ぎず、「数十年におよぶ念入りな調査から、大半の災害学者が、災害においては市民社会が勝利を収め、公的機関が過ちを犯すという世界観を描くに至った」とソルニットは述べている。

さて、本書では地震やハリケーンだけではなく、疫病に関する事例も紹介されている。

医学史研究家のジュディス・リーヴィットは、二回の天然痘流行を例に挙げ、権威者たちの行動が、いかに危機を左右し、開かれた社会の価値を表すかを説明した。*1一八九四年にミルウォーキーで勃発したときには、公衆衛生局局長が上流階級と中産階級の人々には検疫を認め、「その一方で、同市の貧しい移民居住区では隔離病院への強制入院を執行したことが、事態をいっそう悪化させた。この差別が良い結果を生まなかったことは想像に難くない。結果、天然痘は市中にまんえんした。"ミルウォーキーのクズ"という言葉が新聞にはたびたび登場したので、市の南部に住む人たちは、所詮それが一般市民の自分たちに対する見方であり、当局も自分たちには何をしてもかまわないと思っているからこそ、方針にそのような不公平が生じたのだと感じた。したがって、移民は天然痘の症状が出ても報告せず、衛生局の職員がやってきても患者を隠すという手で応じた。そして最終的には、強制隔離や予防接種に対し、暴動で手向かったのだった。」(p.173)

しかし、1947年にニューヨークで天然痘が発生したときの状況は異なった。市民は協力者として扱われ、流行の状況や発症例について毎日多数の記者会見や報道があった。これにより事の成り行きを知らされていると感じたこともあって、二週間以内に500万人の市民が自由意志で予防接種を受けたという。*2上記の例からは非常事態における情報公開や開かれた社会の重要性を学ぶことができるが、そのようなあり方は非常時に急に変えられるものではなく、普段の社会の姿が反映されるのだと思う。

「自分たちの正当性に対する挑戦である社会秩序の混乱を恐れる」エリートパニックは政府や公的機関に限らず、例えば会社の経営者、イベントの主催者など、責任や権力を伴う様々な立場の人々が陥ると個人的には考えている。新型コロナウイルスをめぐる日本の状況は日々目まぐるしく変化するため、その渦中において「これはエリートパニック」だと判断することは容易ではないが、「こんなことをしてはみんなパニックになってしまう」「既に決まったあり方を変えたくない」と思うとき、自分自身がパニックになっていないか立ち止まって考えたいと思う。

(おわり)

*1:翻訳では「いかに事態そのものや、開かれた社会の重要性を左右するか…」になっているが、意味が取りづらいためこの部分だけ原文(shapes a crisis and the value of an open society)に基づき意訳した。

*2:ところがこのような事例があるにも関わらず、2005年にはアメリカの連邦政府の高官たちは「もし新しい大流行が起こった場合は軍による強制接種が必要であろう」と推測したという。「その背後にあるエリートパニックと発想の根を断つのは難しい(p.174)」。