博士の問題は数より指導の質では?

1億円かけてフリーター 大学院生「今の半分で十分」 (連載「大学崩壊」第8回/コンサルティング会社の橋本昌隆社長に聞く) : J-CASTニュース

 アメリカの「博士」と日本の「博士」とは質がまったく異なります。同じ「博士」という言葉で議論するのは建設的ではありません。研究業績を出す力とマネジメント力など総合力をみると、アメリカの博士の方が圧倒的に優れています。

かの国(の一流校)はちゃんと教育目標を設定した上で指導をしてるらしい(参考:大学院教育で何が出来ると人が育ったと言えるのか、日米の人材育成の考え方の違いに見えるもの)。おそくらくその目標を達成するために、不適切な教員を排除したり研究費を調達したりといった教育レベルを維持するためにの仕組みがあるのだろう。
かたや日本は育成すべき人材像があいまいなため、えてして「教官にとって都合の良い学生」が「良い学生」ということにされてしまう。達成目標が無いために教官の指導力の有無が問われることもない。それゆえに、研究能力もマネジメント力も低く、気まぐれの「指導ごっこ」で学生を潰しまくっているような人物であっても、いち研究室の教授が務まってしまう*1。
これで差がつかない道理が無い。

 一方、日本の院は、誰でも入れて誰でも博士号を取れるといって過言ではない、ぬるま湯のような状態です。入るときの倍率は0.7倍、そして入ってしまえば9割ぐらいは博士号を取ることができます。よく「日本の大学は入るのは難しいが出るのは簡単」と言われてきましたが、今の大学院は入るのも出るのも簡単というわけです。

(読み落としてた)「誰でも入れて誰でも博士号を取れる」というのは過言。博士号の基準があいまいなため、低い能力でも学位をとってしまえるケースも多いのでそう見えるのかもしれない。でももちろん全部がそうではない。
ぬるま湯と言うなら、むしろ「教授*2にとってのぬるま湯」ではないだろうか。なにせ、大した研究成果も出さず、ろくな指導もせず、学生をうつ病や自殺に追い込んでも定年までぬくぬくとしていられるのだから。(ただしここでぬるま湯と言ったのは指導力の評価が存在しないという意味で、行政の不首尾が教官の負担を増やしている昨今は、やりたくても十分な指導が難しい状況になっている。大学の教官はサボり放題だというつもりは無い。)

もし学位の取得率が高いとしても、それ自体は別に悪いことではない。問題は上に書いたように大学院の(研究費や設備なども含めた)指導能力が低いことで、要求レベルを上げれば、ついていけない学生は自然にドロップアウトしていく。脱落する学生が「レベルが高すぎて自分には無理だった」と納得できるくらいにハイレベルな内容であれば(長時間労働とか嫌がらせを我慢させるとかではなく)威厳を保つこともできる。ただし、そのためには学生の成績評価を担当教官の一存で決めるのではなく、公正で判りやすい基準を用意しておかないといけない。
今のまま安直な口減らしのために教授に退学権を与えたりしたら、学位を盾にした横暴を今以上に増長することになる。

まず理系の話をします。自己責任論は間違いです。この問題は明らかに、就職という出口のことをきちんと考えないまま、しかも学生たちには明るい希望があるかのように誘導した国策の誤りです。

学位を取っても就職口が少ないことは分かっていたはずなので、どちらかと言えば自己責任だろうという気はするが、国策に問題があったのも確か。
年金もそうだけど、甘い言葉で熱心に勧誘しておいて後で配当を踏み倒すというのが日本の行政の常套手段らしい。
こんなだから「子供を理系に」というお上の掛け声に気持ち良く賛同できない。

院生数の総枠削減と適正配置を真剣に検討すべきです。

これは賛成。ただし先に教官の選抜をしてもらいたい。
その場合、優秀な教官を選んで優遇するよりも、明らかに駄目な研究室を解体することの方が効果的だろう。解体が無理なら学生を潰させないように学生を配属しない(その分学内の雑務を割り当てるなどでバランスを取る)ようにするとか。
研究室の能力をどうやって評価するかは難しいところで、やはり研究内容、予算獲得の具合、学生の論文の質や学生の活力*3から判断するしかないかもしれない。
けれど、明らかに駄目な研究室を見つけだす評価軸を決めるだけならそれほど難しくはないように思う。今でも「あそこはダメだ」という研究室は学内・学外に知れ渡っているはずだから、そういった研究室の駄目な理由を基準にすればそこそこ妥当な基準ができる気がする。

*1:もちろん有能で誠実な教官も一定数はいるが、どんなにひどい教授でもクビにはならない

*2:若手教官やポスドクは除く

*3:毎年うつ病患者や退学者が出るような研究室にはたいてい問題があるだろうから