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日記、雑記、時々ペイント

仏はデジタルをどこまで許してくれるのか

昨夜はいとこの祖母の通夜、そして今朝は葬儀だった。

痩せこけてから初めてスーツを着用したが、シャツの首元もスラックスのウエストもブカブカで、自分の体形変化にびっくりしている。

「太って入らない」というパターンももちろん嫌だが、自分の場合は「小学生が入学時に6年生の時のことを考えて大きめの制服にしたけど結局ブカブカのままでした」みたいな感じがして空しい。

いとこ(母の妹の息子)は同い年と2個上の二人で、十数年ぶりに会ったら顔が随分と変わったように感じた。いい意味で普通の一般人という感じ。

同い年のほうは自分と違って順風満帆の人生を歩んでおり、ちょっとキツめの奥さんと二人の子供が既にいる。なお、子供の名前はややキラキラしている(オブラート)というか初見で絶対に読めない。

夫婦ともに進学校に通っていたのでそういう感覚は持ち合わせていないと思っていたが、意外と流行に乗るタイプなのかしら。まあ自分はそのステージの三つぐらい手前にすら到達してないから何か言う資格も無いんですけどね。プププ。

ところで葬儀で気になったのは、今回が初ではないが遺影にデジタルの写真が使われていたことである。

ある意味アナログの典型とも言える宗教関連において、いわゆるDXというのはどこまで許容されているのだろうか。そもそも誰に許可の権限があるのかも知らないけども。

遺影がデジタルになることで写真に幅が生まれる。サイズも自由だし、いい写真が複数あって選べないならスライドショーのようにすることもできる。

葬式に限らなくても、最近はpaypayに対応したお賽銭もあると聞く。足の悪い人や急遽都合が悪くなった人のためにオンライン参拝ができる寺社仏閣も近年注目を浴びており、時代に合わせて変わるニーズに応えようとするとデジタル化が正解なように思える。

一方で、言い方は悪いが前時代的な考えの人からは「暖かみが無い」的な批判も上がる。ましてや人と人との繋がりを重視する宗教関連なら尚更だろう。

言いたいことは非常に分かる。「デジタルも電気でほんのり暖かいですよ」と言ってもそういうことじゃねえよと怒るのも分かる。メールのような文章のやり取りではなく対面での会話でしか得られないものもある。

とはいえ、お坊さんは大体「どのような形でも真心がこもっていれば~」的な模範解答を言う。恐らく各宗派の祖も同じことを言い伝えていて、それが一番角が立たないのかも知れない。

年賀状のフル印刷も一部では物議を醸していたが、手書きという分かりやすい苦労が真心を証明する手っ取り早い手段だと思う人にとっては、「アナログ→偉い」「デジタル→手抜き=真心がこもっていない」という判断になるのだろう。

だから『手書き風フォント』とかいう本音と建前が入り混じる人間社会のめんどくささの縮図みたいなものも作られている。

とはいえ、その宗教が生まれた時に教祖も当時の便利アイテムを使っていたに違いない。火が必要ならロウソクを、大きな音を出すなら銅鑼を用意したはずだ。

そこまで遡って考えれば、今のデジタル化がさほど悪影響とは思えない。デジタル化そのものは効率化に寄与するまでが役割で、楽になったから手を抜くとか心がこもらなくなるというのは、それを扱う我々の気持ちの問題である。

「線香の煙が仏様の道筋となって~」というならそれは守らなければいけないだろうが、線香を立てる行為自体に意味があるならば、火事のリスクが減るLED電気線香に切り替えることにも何ら問題は無いはずだ。

いつまでも仏様がアナログな状態でいることに疑問を持ってもいいかも知れない。

タブレットを使いこなす仏がいてもいいじゃない。ほっとけよ、仏だけに。