友達に嫌われるのが怖くて、発信ができない人へ。
僕自身がブログやウェブサイト、SNSで好き勝手発信しているからだろうか、時々こんな相談をされる。
「僕も(私も)ブログ書いたりSNSで発信したりしたいです!だけど、そこまでして伝えたい何かもないし……。結局、友達から嫌われるのが嫌で、できないんです」
この気持ちは、とてもよくわかる。
たとえ誰かに嫌われてもいいから伝えたいって強烈に思えるような、憎しみにも似た何かを持てる人は、そう多くない。
これを伝えたいと強く思えるようなテーマはないけれど、日々考えたことを率直に表現したい、そんな人が大多数だと思う。実際、僕もそういうタイプだった。
今日は、「思ったこと、考えたことを文章で表現したい」と思っているいたって普通の人間(つまり僕)が、どうすれば嫌われることを恐れず表現できるようになったかを書いてみたい。
発信手段にはいろいろあるけれど、今回はブログを例にとりたいと思う。
実は僕は今でも、思ったことをブログに書き綴ることが怖い。とても怖い。
自分の書いた文章によって、誰かを傷付けたり、不快にさせてしまうことが怖い。
SNSで自分のブログの更新情報を流すのが怖い。ウザいと思われるのが怖い。
だけど、書ける。それは、「自分を素直に表現すれば、必ず共感してくれる人がいる」ことを、信じているから。その共感を得られる嬉しさが、誰か知っている人間の気持ちを損ねることにより味わう悲しみよりも、大きいからだ。
この(共感の嬉しさ)>(嫌われる悲しみ)の式を体験し、そして左辺の値を次第に大きくしていくということが、ブログを書くということなのかな、と僕は考えている。
まず、ブログを書き始める段階で特に大切なことなんだけど、「人は自分が思っているほど自分のことを注目していない」という、寂しい事実を受け止める必要がある。
僕が最初にHTMLオンリーで(テーブルとか改行タグによるスペース確保とかの旧式のテクニックを駆使して)ウェブサイトを作った時、SNSで告知するか大いに迷ったものだ。なぜなら、自分自身がそのウェブサイトがおもしろいのかどうか確信が持てなかったからだ。「なんだよこれつまんねー」と言われたらどうしよう。そんなことを考えていた。
だけど実際、告知してみると、何にも反応が無かった。Google Analyticsを見ると1日に5とか6とかのアクセス数が細々と刻まれていた。わずかに抱いていた、「もしかしてめちゃくちゃアクセスがあるんじゃね?」という根拠のない夢は打ち砕かれた。そして、少しだけホッとしたことを覚えている。
(このあたりの経緯については、 インターネットという大海に、僕は石を投げ続ける で詳しく書いています。)
おそらく、「発信がしたい」と思うような人は、「周囲に影響を及ぼしたい」ということを少なからず思っているはずだから、予想をはるかに超えて自分が注目されていないことに落胆するかもしれない。
しかし、これをポジティブに受け止めよう。誰も自分に注目していないからこそ、素を出して実験してみることが可能なのだ。
「小さなチーム、大きな仕事」にも、「無名であることは、すばらしいことだ。日陰にいることを幸せに思おう」とある。
最初は、恐る恐るでかまわない。少しだけ、いつも誰かを気にして書けなかった自分の正直な気持ちを、書いてみる。
自分の素直な感情を書けていれば、きっと反響があるはずだ。
一度だけでいい、「勇気が出ました」「共感しました」というメッセージをもらえたら、「ああ、自分は思ったことを書いていいんだ」と思える。もちろん、まだまだ誰かに嫌われることを受け入れることは難しいかもしれないけど、少なくとも「嫌われても、書きたい」と思えるはずだ。
それが、(共感の嬉しさ)>(嫌われる悲しみ)の式を体感するということ。
あとは、「最初は自分を表現するのに躊躇しちゃったけど、次はもう少し、出してみよう。そうしたら、もっと深く共感してもらえるかもしれない」と思うはず。「いかに自分を表現するか」を考えていく方向にシフトする。
それが、(共感の嬉しさ)の部分を大きくしていくということだ。
僕は、ブログを書くという行為は、火を熾して次第に大きくしていくのに似ていると思っている。
一つひとつの記事が、薪にあたる。
薪をくべて、火を大きくしていく。アクセスが上がっていく。また、薪をくべようと思う。
あるブログ(あるいはその他あらゆるネット上のコンテンツ)においてセンセーショナルな議論が渦巻いてにっちもさっちもいかなくなることを「炎上」というけれど、燃え上がらせるという点では、それと同じだ。「炎上」では、主にそのコンテンツの主に対する批判的な意見が多くなるのだろう。
実は、多くの共感を呼ぶくらい素直に自分を出していると、どうしたって嫌われることは避けられない。
昔、「嫌われるコンテンツを作って、嫌われて生きよう。さもなきゃ無視されるだけだ。」という記事で書いたように、自分を素直に出せば出すほど、自分を嫌う人も、好きになる人も増える。
実際、僕もTwitterでリアルの知人・友人からブロック・アンフォローされることがけっこうある。
ネット上には有名人に対する「アンチ」なるものが存在するけれども、あれは有名人がすべからく個性を出しているからだ。
逆に言うと、誰かに嫌われるほど自分を素直に表現することができている段階までいけば、嫌われても大したことないと思える、はずだ。なぜなら、その時点では(共感の嬉しさ)が(嫌われる悲しみ)を上回っているはずだからだ。
一つだけ、「自分を素直に出すこと」について、気を付けなきゃいけないことを書いておきたい。
それは、ネガティブなこと「だけ」を書かないことだ。
あれが嫌いだとか、気に食わないとか、そういったことを書くなというわけではない。ただ、書くのであれば、「では自分はどうすればよいと思うか」「どうあるべきだと思うか」まで、書くべきだ。
ネット上に自分の書いたものを発信するということは、誰かに見られることを前提としている。そうでなければ、日記帳にでも書いておけばいいからだ。その時に、最低限、見る人に礼儀を持ってものを書くべきだと、僕は思う。
自分の飛んだページでいきなり著者の「あれが嫌い、これが嫌い」という言葉を投げつけられるのは、目の前で人が糞尿を垂れ流しているのを見せつけられるような不快感を伴う。
「見るか見ないかは読者の自由ではないか」という意見も、あると思う。これは個人のポリシーに由来すると思う。
ただ、僕のようにリアルと非常に近い状態で(つまり実名SNSなどで告知を行う前提で)ブログを書く場合には、上記のことに気を付けた方がよいと思う。
匿名のブログなら、極端な話、なんでも書ける。それこそ「あれが嫌い、これが嫌い」といった話も書ける。そのブラックな雰囲気に惹きつけられる人も出てくるだろう。「わかる!俺も嫌いだ!」なんて言い合って、共感し合えるかもしれない。
だけど、そのブログ上の人格が、自分だと認められる瞬間は、永遠に来ない。いくらアクセス数を稼いでも、「現実の自分」と「ブログ主としての自分」は、誰にも結び付けられない。
それでもいいって言う人は、それでかまわない。
だけど僕の場合、ブログやSNSを通して、たくさんの人たちと出会えたから、ブログはリアルとできるだけ近い形にしておいた方がメリットは大きいのではないかと思う。この場合、ブログにおいて礼を失ったことを書かないというのは、とても重要なことだ。
僕は、価値観の合わない人には自分の文章を読んでもらわなくてもいいと思っているけれど、その人たちに対してさえ、礼を失った書き方はしていないと信じている。自分の書いたものに誇りを持っているからこそ、ネットとリアルが接続した時に、胸を張って新しい出会いに臨むことができるのだ。
僕は活字を読むのが好きだ。また、人が何を考えているのか知るのが好きだ。
だから、もっと多くの人がブログやSNSを通して自分の素直な気持ちを書くようになればいいなぁと思う。
今SNSで最も隆盛を極めているのはFacebookだと思うが、あそこで自分を素直に出せている人はどのくらいいるのだろう。
タイムラインを流れる、前向きな言葉や写真、誰にも刺さらないコンテンツ。イイネを押しても違和感のないように、みんな慎重に、投稿内容を選んでいるのだろう。
でも、人間にはもっといろんな感情がある。いつもキラキラしてる人間なんて気持ちが悪い。もっと素直に、自分の思ったことを出していく人が増えてほしい。
人生であと何度会うかわからない人間に嫌われるのを恐れているよりも、インターネットの海のどこかにいる、自分の存在で少しでも心が救われる人に、自分の言葉を届けよう。その人を啓発したり変えたりする必要はない。ただ、自分を素直に出すことで、その人が救われるのだ。
たった一人でも、誰かを感動させられる文章が、誰にでも必ず書けるから。
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