逆寅次郎のルサンチマンの呼吸

独身弱者男性が全集中して編み出した、人間の無意識にあるもの全てを顕在化する技を伝授します。

ワールドカップで日本がドイツに勝利したことを歓喜しなければ人格を疑われたり非国民扱いされるので人前では仕方なく喜ぶが内心どうでもいいと思ってる

そういう人もいるんじゃなかって。
俺はそうなんだよ。でもそういう人って、薄情で、最低なのかな?
と思ってしまうが、でも一定人数は、いるんじゃねえのか。

人力検索はてなでアンケートでもしてみるか。

q.hatena.ne.jpだって根本的には、別に日本が勝とうが負けようが、人生には何の関係もないだろ。
そりゃ家族とか友達とか知り合いが出場してたら関係あるけどよ。

でも宮本徹さんが言うように、民主社会なんだから「どうでもいいと思ってる」という意見も尊重してほしいところだけどね。

b.hatena.ne.jp宮本徹 on Twitter: "ドイツを応援する日本人がいても、日本チームを応援するドイツの方がいても、それを尊重するのが民主社会。 そして、一個人の見解を日本共産党の見解であるかのように、描くのはフェイクそのもの。"

「さも喜ぶのが当然」みたいな、歓喜を強制する感じ。
ワールドカップハラスメント、感動ハラスメント、ドーハの歓喜ハラスメントだ。
この大喜利の方が面白かったよ。

togetter.comニュースを回せば、どこもかしこも勝利を祝う、皆が喜んでいるという空気を作り出す。
そこに真実はあるのか?
それでもジャーナリズムかよ!

The Worlds of Journalism Study が実施したジャーナリストに対する68カ国横断アンケート、日本のジャーナリストは「事実をありのままに伝える」がトップではないんだと。

anond.hatelabo.jp「政治的アジェンダを設定する」が重要になってる、だから偏向報道になってんだ。

おーい、ここにマイノリティの声、あるぞ。
「どうでもいいと思ってる」声も拾って、報道しないんかい。
もしかすると、マイノリティじゃないかもしれないぞ。


だって、ゴール!って決めるじゃん。
「おおすげえな」って思ったけど、別に感動とか大げさだよ。
感動などないよ。

(引用元:最強伝説 黒沢 1 [ 福本伸行 ])

歓喜の中で、腹の底が、胸の奥が、どんどん冷えてく人だっているだろうよ。
どんなに大掛かりでも、所詮は他人事じゃねえか。

(引用元:最強伝説 黒沢 1 [ 福本伸行 ])

自分の、自分自身が成し遂げた歓喜じゃねえんだよ。

この漫画の黒沢がいいこと言ってるよ。
テレビの向こうで活躍するサッカー選手達に対して、
「俺が求めているのは……オレの鼓動……オレの歓喜。オレの咆哮。オレのオレによる、オレだけの……感動だったはずだ!」
「他人事じゃないか…!どんなに大がかりでも、あれは他人事だ…!」
ってね。その通りだって俺は思ったよ。

そういう現実が誰しもあるはずで、にも関わらず「どうでもいい」という人の声は拾わず、報道されるのは「嬉しい!」「やったー!」という声ばかり。
やったーっておめえよ、別に普段の生活にあんま関係なくねえか?

じゃあなんで、歓喜は強制されるのか?
マスコミやあらゆるメディアは、「感動をありがとう」的な、日本勝利をこぞって祝し、感動を強制するような偏向報道をしてしまうのか。

それは「国家の利益に寄与するから」というのも1つとしてある。

アルチュセールは、「国家のイデオロギー諸装置」という概念によって、いかにして国家がイデオロギー諸装置によって自国の支配や体制の維持を行っているかを暴こうとした。スポーツのような見世物も、国家のイデオロギー諸装置の1つだ。

われわれはただちにその核心へと進み、そして現代の資本主義社会において、国家の抑圧装置から国家のイデオロギー諸装置を区別するものとは、以下のような差異であると述べよう。

〈国家の抑圧装置〉は、定義上、間接的または直接的に物理的暴力を用いる〈抑圧装置〉である一方、〈国家のイデオロギー諸装置〉は「〈国家装置〉」という同じ意味においてのみ抑圧的であると言われうるにすぎない。というのもそれは定義上物理的暴力を用いないからである。〈教会〉も〈学校〉も諸政党も、新聞もラジオ - テレビも〈出版〉も、もろもろの見世物もスポーツも、それらの「お得意さんたち」のそばで機能するためには、少なくとも支配的で可視的なしかたでは、物理的暴力に訴えることはない。

教会に行くこと、学校――たとえ、それが「義務」……ではあれ、――に行くこと、ある政党に加盟しそれに従うこと、新聞を買うこと、テレビのチャンネルを回すこと、映画、競技場に行くこと、そしてレコード、絵画や「ポスター」、文学、歴史、政治、宗教、また科学の本を買い、「消費する」ことは、「自由」である。したがって以上のことは、〈国家のイデオロギー諸装置〉は、「暴力によって」ではなく「イデオロギーによって」機能するという点で、〈国家装置〉と区別されることを示している。

(引用元:再生産について(上) イデオロギーと国家のイデオロギー諸装置 (平凡社ライブラリー) [ ルイ・アルチュセール ]p177-178)

このイデオロギー諸装置については以前の記事でも引用した。

gyakutorajiro.comまず「共同体への責任」という、どこか抽象的な理由を自殺をしてはならない理由として紹介しているが。
それをもっと深堀りすると、その「共同体への責任」の中に、国家のイデオロギーが多分に含まれてる。
そのイデオロギーとは、資本主義社会を発展させるための価値観であり、ありとあらゆる場所・形式で、流布されてもいる。
その現実を、ルイ・アルチュセールは「国家のイデオロギー装置」として明らかにした。

「マルクス主義理論」における〈国家装置〉は、政府、行政機関、軍隊、警察、裁判所、刑務所を含んでいることを想起しよう。それらは、われわれが今後、〈国家の抑圧装置〉と呼ぶであろうものを構成している。抑圧的とは、正確かつ強い意味では、物理的暴力の行使(直接または間接、合法または「非合法」の)であると極限では理解しなければならない(なぜなら、それは非物理的な抑圧の数多くのきわめて多様で、さらには隠された諸形態が存在するからである)。

では〈国家のイデオロギー諸装置〉(AIE)とは何か。
それについての最初の概観をつかむために、ここに暫定的に列挙してみる。

1/〈学校装置〉
2/〈家族装置〉
3/〈宗教装置〉
4/政治〈装置〉
5/組合〈装置〉
6/〈情報装置〉
7/〈出版-放送装置〉
8/〈文化装置〉


これが暫定的なリストであるのは、一方では網羅的ではないからであり(第12章を参照されたい)、他方では7の〈装置〉と8の〈装置〉は一体をなすことがありうるからである。私がこのようにふんぎりをつけることができないことを容認していただけるのではないかと思うのだが、というのも私の「包囲陣」は、探求に値するこの点にはまだ敷かれていない(3)からである。

(引用元:再生産について(上) イデオロギーと国家のイデオロギー諸装置 (平凡社ライブラリー) [ ルイ・アルチュセール ]p170-172)

(3)「私の包囲陣は敷かれた」は「ご意見無用」という意。歴史家ルネ・オペール・ドゥ・ヴェルトー神父(1655-1735)が、1726年、ステレマン二世によるロドス島攻囲戦の戦記を書き終えたとき、未開の資料を提供しようとした人に向かって答えた言葉。

もちろん「国家とは距離を保ってる、民間企業や私企業もある。SNSの普及で、個々人も意見を発信できるようになってる」と。
「何でも国家にコントロールされてるというのは乱暴な陰謀論だよ」という意見もあるだろう。


だが国家の関与の有無、公的か私的かは、問題ではないとアルチュセールは語る。

今度は、まったく異論の余地がないと思われる別の例をとりあげれば、法的にはプルーヴォ氏が所有するいくつかの新聞や、シルヴァン・フラワラト氏とその他の者が所有する〈ラジオ〉と〈テレビ〉の地方局は、それゆえ私的な部門に属するのであり(民法典)、自らの「自由」と独立を信じさせる空想の一部にあずかる「権利」を彼らがもっているとしても、そうすべきときには、というのはつまり頻繁に「白昼堂々」、実に露骨に、ブルジョア国家の政治に歩調を合わせ、視聴者や読者のそれぞれに適したもろもろのヴァリエーションを用いて、ブルジョア国家の果てしなく繰り返されるイデオロギー的ミサの偉大なる諸テーマ、〈国家のイデオロギー〉の諸テーマをまき散らすことが申し分なくできる、ということは誰もがよく知っている。

したがって、国家のイデオロギー諸装置にかんするわれわれの〈テーゼ〉に打撃を与えることができるのは、私的/公的の区別ではない。挙げられた私的な制度のすべては、国家の所有物であれ、これこれの私人の所有物であれ、いずれにしても、〈国家のイデオロギー〉のもとで決定された〈国家のイデオロギー諸装置〉の諸部分として、それらに固有の形態で、国家の政治や、支配階級にそれに奉仕することで機能するのである。

それらに固有な形態とは、つまり優越的なしかたでイデオロギーに機能する〈諸装置〉の形態である――〈国家の抑圧装置〉のように、抑圧によって機能するのではない。私がすでに言及したように、このイデオロギーは、〈国家のイデオロギー〉そのものである。

(引用元:再生産について(上) イデオロギーと国家のイデオロギー諸装置 (平凡社ライブラリー) [ ルイ・アルチュセール ]p181-182)

一見、私的な団体や所有物、ラジオやテレビにおいても、国家の法は及んでいるがゆえに、国家のイデオロギーを完全に排除するのは困難だという話だ。

実際、サッカーで勝利した翌日を休みにしたことを「粋な計らい」と報じるマスメディア。

もしかしてサウジアラビアで生活する国民の中には、仕事が休みになって明日食べる取り分が減り困っている人もいるのではないかという可能性には目もくれず、国家の判断を肯定する。

だから公的だろうが私的だろうが、国家のイデオロギーが介入する余地はどこにでもある。

実際、喜んだだろう?
根本的には、自分の人生に何の関係がないにも関わらず!

カタールのドーハで行われるワールドカップで、堂安律が同点ゴールを決めて、浅野拓磨が逆転の2点目のゴールを決めた。日本が勝利した。
で、それで自分の人生に、好影響はあったのかよ?

推しがサッカー好きだから、自分も好きになったという話もあった。

anond.hatelabo.jp確かにそういう、推しや、周りの友人や、家族と、楽しみや歓びを共有できる好影響はあるかもしれない。

だが、周りの人とかじゃない。

新聞やメディアが垂れ流す情報、他人からの同調圧力…それらを一切、無視した状態で、自分の気持ちだけに正直になった時。
本当に自分の心の底から、日本がゴールを決めて、感動したと、言い切れるか?

俺は言い切れない。感動できないものは出来ない。
心の底から「よかったね」という程度の感情。

自分が同調圧力の影響を受けない理由は、まあほとんど人と接する生活をしているというのもある。
ニートじゃねえが仕事も人と接する仕事じゃないからな。
だから「よかったね」と言ったけど、むしろ本当の心の底は「どうでもいい」という感情だ。

日本が勝利した時に感じたこと。
「よかったね」という気持ちが2割で、残りの8割は「どうでもいい」だ。

ハッピーターンの粉が多い時の方が感動した。
初めて、ハッピーパウダー増量のハッピーターンを買った時だ。


「おおーさすが、ハッピーパウダー250%だな~!」っていう感動の方が大きい。
ワールドカップで日本がドイツに勝利した感動よりも。
まあ、そんな人間だから結婚できねえってのもあるかもしれないけどよ。

堂安選手のインタビューがあった。

times.abema.tv 日本国民のために、日本のために、このエンブレムを背負って戦っているわけなんで、そう言っていただけるとうれしいです。「明日からまた会社頑張ろうと思ったよ」とか、そういうひとことがSNSを通じて、いろいろな連絡ももらいますし、僕らはサッカー選手ですけど、エンターテイナーだと思っているので、そういう意味では昨日の試合ではそういう役割は日本国民のみなさんにはお見せできたかなと思います。

スポーツ選手のプレーとか観て「明日からまた会社頑張ろうと思ったよ」という感覚、俺には一度もない。
寂しい人間なのだろうか。
闇金ウシジマ君に出てくるニートの宇津井みたいな。

メジャーで活躍するのは、文化の違いや言葉のカベとか大変だけど、
目標に向かって障害を乗り越えていけたら人間的に成長出来るンで、
楽しいっス‼

チッ‼
将来有望な若いスポーツ選手の前向きな発言は、
正直、ヘコむ。
どう考えても俺の生活とはかけ離れていて、
どんな素晴らしい言葉も参考にならねェ。


(引用元:闇金ウシジマくん(8)[ 真鍋昌平 ])

もちろん宇津井のように、社会的に活躍しているスポーツマンや成功者への妬みの感情等から、テレビを消すとかはしない。

でもやはり「どうでもいい」と思ってしまった。
ルサンチマンとはちょっと違う。
ルサンチマンは嫉妬・怒り・恨み・辛みを抑圧するための奴隷道徳だが、そもそも嫉妬とか怒りではない。

芸人のだいたひかるがやっていた「どうでもいいですよ」というような感じだ。

www.youtube.comドラマとか漫画とか映画を観ている方が面白い。
先に引用したアルチュセールの本の方が面白い気がする。

もちろん、アルチュセールを引用したからといって、俺は左翼とかはてサとかではない。
思想的にはリベラルに近いかもだけど。

anond.hatelabo.jp社会自由主義(リベラル)

中道左派。いま日本で言われているところの「リベラル」。

古典的自由主義のように野放しにしていると、差別や格差が広がって個人の自由が制限されるから、むしろ国家権力が介入して積極的に差別や格差を是正すべきだ、という感じ。

政治的には中立、資本主義も共産主義も、ダメな部分は大いにあると思ってる。


宗教とかイデオロギーで扇動せず、経済的合理性や多くの市民の利益に立脚して政治をしてほしいとは思ってる。


だが本当にダメだと思うのは、こういうか細い声が無視され、どこもかしこも歓喜ムードになり、一つの意見を強制する全体主義的な空気になることだ。


共産党の人間はサッカーが国威発揚に利用されるのが嫌で反対しているって話もあったが。

anond.hatelabo.jpこれはそんなイデオロギー的な理由だろうか。別に野球や陸上競技もイデオロギー装置として機能する可能性はある。
上部構造の話ではなく、下部構造、経済の問題だろうよ。
サッカーが好きか嫌いかでなく、金がもったいないって話じゃねえのか。
福祉とかもっと別に使うことあるんじゃないのっていう。

須藤玲司って人が言ってる話もわかる。

b.hatena.ne.jp人権問題も大事なんだけど、その政治的イデオロギーがスポーツ競技や、スポーツをプレイする選手に持ち込まれたら、純粋にスポーツを楽しめなくなる。
まあ別に楽しめなくてもいいんだけどね。
コンテンツとして面白くなければ衰退するのみだろうし。

例えば、日本勝利に俺のような「どうでもいい」というコメントと同じく「興味が無い」的なことを言ってる人もいたようだ。

anond.hatelabo.jp匿名だから言えるけど、歓喜に湧く群衆の前では言いにくいことだよな。

また、日本代表団とか日本人が、他国と違いサッカーのことばかり考えて。
カタールで起きている同性愛差別や外国人差別等に、何の問題意識も持たずにサッカーを愉しむのはどうなのよ?という問いもあった。

www.asahi.comそういった諸問題に関する問題提起をしている人もいた。

amamako.hateblo.jpスタジアム建設はデマだったらしいけどね。

www.jijitsu.net

日本共産党の羽鳥だいすけ氏のこの発言。

b.hatena.ne.jp人権意識が高いドイツを称賛する意味での発言だったけど、炎上してしまったな。

こういった日本勝利のニュースに対する否定的意見に対して「黙ってるのが礼儀」「脈絡0やん」というリプライがあったけど。

脈略0ではないんだよ。
国家のイデオロギー諸装置として、パンとサーカスとして、娯楽の提供は政治の安定につながるんだから。

www.y-history.net前1世紀の「内乱の一世紀」の時代には、カエサルなどの有力者が盛んに剣闘士競技や戦車競争を開催して市民の人気を集めた。また属州から多くの穀物がローマにもたらされるようになると、ローマ市民の特権として穀物(小麦)が配給されるようになった。ローマ帝国時代になると、アウグストゥス以降の皇帝たちは、市民に対する穀物の提供と見世物などの娯楽の提供が政治の安定につながるので、盛んにそれを実施した。しかし、それらは帝国の財政を苦しめることにもなるので、後には緊縮策を採る皇帝もあった。

まあでもそういう、政治的な話を抜きにしてだな、「よかったね。まあどうでもいいけど」ってのが俺の感想なんだよ。

でもこの感情を抱いた人は、自分だけではないと信じたい。

リオデジャネイロ五輪の時もそうだった。
オリンピック基本的にどうでもいいから、観てなかったけど。
会社の人が「吉田沙保里、惜しかったよねーほんと!」って感動気味に言ってきたんだよ。
このニュースかな。

www.sponichi.co.jpそんで観てないし、逆に吉田沙保里は俺の中で守銭奴疑惑があったからさ。

www.dailyshincho.jp

matomame.jp

「吉田沙保里って何か叩かれてましたよ。ギャラ高いとかで」みたいに言ったんだ。
そしたら会社の人から「もういい!」みたいな、少し不愉快な感じで言われたな。
「こいつに話しても無駄だ」的な表情してたよほんと。

でも何で応援してるのかわからない。
別に吉田沙保里の知り合いとかじゃないじゃん。
同じ日本人ってだけ。
それだけの共通点で人を応援できるもんなのかね?

何にせよ、スポーツイベントに対する俺みたいな人間の声も拾ってほしいものよ。

地上波は無理だろうが、アベマTVとかジャーナリストが、そういうワールドカップ無関心層・無感動層の人がどれぐらいいるか調査してほしいねほんと。