君の生きる小さな世界

例えば私はお金持ちになりたい。
どのぐらいかというと、資産10億円の金持ちになりたいと思っていた。


しかし、零細企業の社員の子どもである私には、どうやったらなれるかわからない。
とりあえず何か成すためには種銭がいる。
ビジネススキルもあった方がいいし、人脈もあった方がいい。
よし、じゃあまずは就職して上を目指していこう。


それから10年。
年収950万円。
1000万円が見えてきた。
さらに他社からもっと好条件で転職の誘いもある。
一気に1200万、いや1500万までいけたりするかもしれない。
これまで遅くまで働き、土日は休日返上で勉強をしてきたかいがあったものだ。
これを続けていけばもっと年収はあがる。続けていけばいずれ……あれ?


「そのとき、あれ、って思ったんだ」
日本酒をクイッと飲みながら彼は言う。
「オレ、お金持ちになりたかったのに、このままじゃきっと届かないって」
そして頬杖をついてぼんやりと言う。
「でも、10年。10年だ。ずっと会社の中で上を目指すことばっかりやってたから、
 いつの間にか年収を増やすことばかり考えていて、それが当たり前で、
 このまま定年までこの世界で生き続けるんだって無意識に思っていたんだ」


これから起業するのか、投資を始めるのか、はたまたそれ以外の方法があるのか、
いろいろ考えているそうだ。
ただ、そんなことを考えている中でしみじみ思うのは、
会社の中で、人に認められよう、誰よりも優れていると思われるように頑張ろう、
として戦ってきた場所が、ふっと、とても小さな世界のように思えてきたことなのだという。


なぜなら十分な貯金と人脈ができた彼にとって、
既に収入を増やす努力は不要となり、
会社員として生きていく、という生き方から意識的に卒業してしまったからなのだろう。


「今までが無駄だったとか、そういう話ではなくて。
 ただ、1週間前、1ヶ月前には自分の全精力を傾けていた場所が、
 一歩離れてみるだけで、とてもちっぽけなものに見えるようになることもあるんだなと。
 そういうのって、よくある話なのかもしれないけど、
 自分にとって大半を占めていたものですら、そうなることがあるってのが、地味に衝撃でね」


彼は言う。
「お前の全てのように思えているその毎日は、実は小さな世界だったりしないかい?」と。
その中にはルールだったり、勝ち負けだったりあって、のたうち回っているかもしれないけど、
いつの間にか迷い込み、染まってしまった、だけど小さな世界なのかもしれないよ、と。


どうだろうか。
「まあ、人生は一度きり。そして短い。自分の毎日を見誤らないようにしたいよな」
と得意気に言った彼にはちょっとイラッとしつつ、
私の生きる小さな世界に思いを馳せていた。


そんな話。