何だ?この、ユーウツは!〜頂上作戦〜

第一部
横浜死闘編
代理戦争


从・ゥ・从<サブ(ry
(オ゚Д゚)<わかってたでしょ?


そう。
覚悟だよ。勇気だよ。そんでもって決意だよ。
僕が初めてそれを感じたのは、2006年11月3日、品川ステラボール。
村上愛が抜けたことを報告するリーダー・矢島舞美の声も、マイクを持つ手も、震えていた。
それでも7人(当時)はこう宣言した。

「この7人で℃-uteと申します」

この一言が僕を℃-uteファンにした。この7人でこれからメジャーデビューしてやっていくのだ、という覚悟。不退転の決意。自らを追い込むことも厭わない勇気。ダラダラ生きてる自分にないものを強く示した7人の小中学生に、僕は参ってしまったのだ。


伸び悩んだ時期も、メンバーが減った時も。
℃-uteは折に触れ、
「それでもここで生きていく」覚悟を決めて、
「あきらめない」決意を固め、
「前に進み続ける」勇気を持って、
それを観客に伝えてきた。
その姿に、僕はいつも感動してきた。
好きな曲ばかりじゃない。ダンスの技量なんてよくわからない。トークはハッキリいって下手だ。
そんな℃-uteから僕の心が離れないのは、有名な『少年ジャンプ』の編集方針「友情・努力・勝利」じゃないけど、この覚悟・勇気・決意を、℃-uteが今もその心に持ち続け、僕らに示し続けているからなんだ。
さらに遡れば、きっとBerryz工房が先にデビューした時だって、もしかしたらそうと気づかないうちに、覚悟・勇気・決意を心に持ったはず。
それが℃-uteの10年なんだと、これからも℃-uteはそうやって生きていくのだと、僕は信じられる。


こういうものを、僕はショッパイ君に見つけてほしかった。


歌詞になりきれなかった、とはどういうことか。
作品として独立していない、ということだと僕は考える。再び小田嶋の言葉を引用する。

 人をして感動に至らしめるのは、作品の力だけではない。読む側の感動しようとする決意が、より大きな力を持っている。
 できれば、読む前に、感動しながら、読み進めてほしい。
 それこそがポエムの要諦だ。

(前掲『ポエムに万歳!』「まえがき」3ページ)

完全に同意できるものではないが、どこか皮肉のニュアンスも感じる。読み手がポエムに感動するのは、ポエムそのものに感動させる力があるからではなく、読み手が読む前から感動しているからだ。そういいたいのかもしれない。
要諦って何? と何年かぶりに電子辞書の電池を交換して調べてみたら、「肝心なこと」だそうだ。
ポエムにとって肝心なことは、読む前に読み手が感動していること。
読む前に感動していれば、読むものはそれをさらに煽るだけでいい。そこには自分が表現すべき、伝えるべきと思えるものを探しに自分の心の中を見つめていく過酷な作業も、自分の伝いたいことを鮮烈な衝撃をもって受け手の心に届けるべく、唯一無二の表現を見つけるための呻吟もない。
自分は表現するものはこれでいいのか、と自問することもない。なぜなら、別に表現しなくてもいいのだ。受け手はすでに感動しているのだから、その意味ですでに結果は出ている。この上何かを表現しようとしまいと、大した違いはない。受け手がすでに抱いている感動(あるいは情動か)に水を差さないこと。求められるのはそれだけといっていい。


日本のポピュラー音楽シーンにも同様の現象があるとしよう。
あらかじめ感動してから音楽を聴く受け手がいる。それはどういうことなのか。
はじめから表現者を好んでいる、受け入れている。
「ワタシの好きな○○さんが(ワタシのために)新しい作品を発表してくれる」「いつものようにワタシの心情を理解した作品を提供してくれる」
ことに感動している、のかなぁ、よくわからないけど。


この図式、どこかアイドル・ポップスとその受け手の関係に似ているように思える。
「○○ちゃんはかわいいから正義」
「正義であるかわいい○○ちゃんがヲレの目を(撮影カメラの向こうから)見てヲレだけにメッセージしてくれる」
「よって神曲」
みたいな。そんなことが実際にあるかどうかは調べていないけど*1、僕の若い頃の痛々しい客なんて、だいたいそんなもんだった。今は代替わりして色々変わっているかもしれない。変わってないかもしれない。
歌い手を「若くてかわいい女のコ」に限定しないアイドル・ポップス。もしかして、それが話に聞くJ-POPってやつなのか。


「深夜枠とはいえ地上波キー局の番組が℃-uteを扱ってくれた」
「有名なJ-POPアーティストが歌詞を提供してくれた」
このへんのことにに感動している人っているよね。先に記したように、まず完成ありきの予定調和に感動できるのだから、純粋な人だと思う。悪い意味でね。
その手の感動は、作品と虚心に向き合うには邪魔だと僕は考える。
確かに、作品の成り立ちにおいて社会的・文化的背景というのは重要な要素だ。僕らが評論家であるならね。
だが僕らは幸か不幸か評論家ではないのだから、僕らが「最後のクリエイター」として相手にするのはまず作品でありたい。データにデータ以上の価値を持たせたら目が曇る。


受け手がはじめから感動してしまえば、それが作品の評価に大きな影響を及ぼすとなれば、もはや作品の良し悪しはどこかにいってしまい、事前情報や付加価値によって受け手を感動させた状態で作品に触れさせることが必要になる。いわゆる「仕掛け(人)」がもてはやされる理由がここにある。
そんな構造の中では、それに甘えたり受け手をバカにしたりする作り手というのが必ず現れる。そうやって自滅して冬の時代を迎えたのが、かつてのアイドル歌謡シーンじゃないか。最近CDが売れなくなった、誰でも知ってるようなヒット曲が出なくなった、なんてのも、作り手と受け手の間にあったほど良い緊張関係が崩れかかってきたからじゃないのかな。


先に挙げた仮説のように、歌詞を書いた人に勇気も覚悟もなかったとしたら、作品として独立していないのも当たり前だろう。受け手があらかじめ抱えた感動や情動に寄りかかったものが、果たして「作品」と呼べるだろうか。むしろ、「受け手にどう思われようと、自分はこれを表現しないわけにはいかないんだ」「自分の方に受け手を引き寄せてやる」というくらい強い思いのあるものじゃないのかな、「作品」って。そこまでやってはじめて、作品は作品として独立する、できるんじゃないかな。「最後のクリエイター」として、僕はそう考えている。



「良い脚本から駄目な映画が生まれることはあるが、駄目な脚本から良い映画が生まれることはない」
という*2。
僕が川口で見た「我武者LIFE」のパフォーマンスは、まさにこの言葉を地でいくものだった。駄目な楽曲から良いパフォーマンスが生まれるはずがない。
そこには覚悟も勇気も決意もなく、ただあらかじめ用意された「感動」というゴールへ向けて敷かれたレールに乗り、緊張感なくダラダラとプログラム通りに進むだけの予定調和。実に陳腐でくだらない。

まるで出来の悪い「サライ」だ。

で、予定通りこれを「感動した」と発言する人がいるのね。バカいうな。「すでに感動している自分に調子を合わせてくれるから気持ちいい」じゃないのか。それを悪いとまでいうつもりはないけれど、それを感動といっていいのだろうか。違うと俺は思う。
思いがけないものを目にし、耳にし、心に届くから感情が動くんだ。予定通りのことを予定通りに進行させつつがなく終了することに感動があるわけないだろうが。お前の感動はそんなに安いのか。俺のはそんなに安くない。
メンバーと感動を共有したいから、メンバーがそれを望んでいるから、という勝手な忖度をして(たとえ正解であったとしても、だ)、それでそんな発言をするのだろうか。用意されたゴールに向かってダラダラ進むだけの観客は、たとえ演者と「感動を共有する」ことはできても、演者を感動させる観客にはなれないと俺は思う。そして俺は演者を感動させる観客になりたい。


そんな安っぽい「感動」はその「わかりやすさ」「気持ちよさ」からか、広がりはとどまるところを知らず、回を追うごとに同調者が増え、あれやこれやのタイミングも決まるようになってきて、予定調和としてどんどん突き詰められ研ぎ澄まされるという、僕にとっては実に皮肉な展開を見せていく。
わかりやすいものに乗っかるというのは、確かに気持ちいい。だがその気持ちよさは「間違いのないものに楽してたどり着く」という、カンニングのような行為の成すものだ。誰かがそこに示した「正解」にただ従うだけで、そこには受け手の思考や感覚はまったくはたらくことなく、およそ知性的なものとはいいがたい。そういうことに慣れていくと、いつしか自分で物事を考えない、判断しない人間が出来上がる。
まさに思考停止。そういう人間を愚民というんじゃないかな。


℃-ute現場がどんどんバカバカしいものに侵されていく。
用意された「感動」に向かっていく、というのはいい換えれば、
「感動」という定型、鋳型に自ら嵌っていく
ことであって、それは僕にとってまったく魅力のないものだ。℃-uteがそういうものに変質させられようとしている。鋳型に嵌った「アイドル」にさせられ、そこからはみ出す(僕にとっての)真のアイドル像から離れていく。悪い意味で「アイドル」でなくなっていく。
だから僕はどんどん冷めていく。もはや僕にとって℃-uteファンの大多数は、僕に迷惑をかける厄介な迷惑ヲタであり、僕からすれば℃-uteの魅力を減じることに手を貸し、成長を阻害する害毒だ。


横アリを想像してみる。伝説のタンポポ畑。あれがみな「我武者LIFE」で盛り上がり、コール&レスポンスだのタオル回しだのがそこいら中で行われる。
何たる惨状。川口をはるかに凌駕する地獄絵図となるだろう。
僕はその中で耐えられるだろうか。周りのすべてが自分と異なる価値観で支配され、いわば敵となって、「同調しなければお前に存在価値はない」とばかりの圧力をかけてくる。それに耐えることが、僕に、いや誰であっても、人間に、できるだろうか。
そんな状況で正気を保ち続ける自信は、僕にはない。


果たして。
心に(回復不能かもしれない)傷を負う危険を冒してまで、横アリに行く意味はあるだろうか。
むしろ回避して、℃-uteコンに行きたい、「我武者LIFE」でみんなと盛り上がりたいという人に席を譲る方がお互いのためではないのか。


そうだ。
嫌なら聴かなければいい。参加しなければいいのだ。
横アリだけでなく、℃-uteの日であれ何であれ、「我武者LIFE」がセットリストに入りそうなすべての公演を回避し、ツアー参加はセットリストを確認してから決める。チケットを取ってから回避することになってしまったら、行けそうな、または行ける人に心当たりのある友人にチケを託すのがいいだろう。
でも℃-uteのライブそのものには行きたい。ならばまたナルチカがあることを期待するしかないだろう。水戸ナルチカではやらなかったし。いや今度は入ってくるかもしれないけれど。
ただでさえライブ以外の℃-uteの活動を追いきれなくなっている自分だから、これで客席にも入らないとなれば、いよいよもって観客人生の幕を下ろす時かもしれない。
「我武者LIFE」と刺し違える。そんな終わり方もいいんじゃないかな。それほど許せない代物なのだしよ。


<次回予告>
アイ・ショックの反撃に、おーがちょーは横アリに続いて℃-uteへの意欲も喪ってゆく。
必殺の一撃でアイ・ショックに抗する事ができるか?
戦いの果てにあるものは…
次回、『燃える胸中』
从・ゥ・从<さぁて、どう戦ってくれるかのう?

*1:調べてないからといって「全部が全部そうだとは限らない。少なくとも自分はそんなことないし、周りにもいない」なんて噛みつかないでね。お前とお前の周りだけが例外かもしれないし、そもそも全部が全部そうだなんてどこにも書いてないんだから。

*2:これをもって「映画は脚本だ」なんて人もいるけど、僕はそれもどうかと思う。その通りなら、良い脚本から駄目な映画ができるはずはないからだ。