涙と汗と矢島舞美

『舞波物語』さん。

舞美は涙を隠すためにあんなに汗をかくんじゃないだろうか。舞美の汗には時に涙が混じっていることを知らなかった。ただ栞菜だけはその汗に涙の匂いがするのを感じていた。

こういうことは僕が気づきたかった。正直悔しい。梅しいじゃなく悔しい。


汗をかいていないと、涙が出ちゃいそうな、変な気持ち。


悲しくて涙を流す時、人の心というのは「止まっている」のだと思う。そして体が動く(動かす、とはちょっと違う)時は心もまた「動いている」。
止まることよりも動くことを選択する舞美はひたすら汗をかく。それを望み、喜びとする。のかもしれない。汗をかくことができるうちは涙を流さないで済む、という無自覚の哲学。
自転車でバス停に突っ込んでいた頃は、身体の痛みに泣くことはあっても悲しみの涙を流すことはほとんどなかったんじゃないかと想像。自力ではどうしようもないことにぶつかってただ涙を流すしかできない自分に出会い、涙を流す自分と汗を流す自分を発見したときに、心のどこかが決めたんじゃないだろうか。
「あたしは汗を流す。だってその方が楽しいじゃん」
汗っかきだから汗を感じ言葉にするんじゃなく、汗を流すことを切ないまでに希求しているから汗が出てくる、そんな順序があるのかもしれない。あくまでも妄想。


さあ、寝るキューを思い出そう。
大人に憧れていて、早く大人になりたいがゆえに子供である自分が許せなくて(だと思うんだよね)カリカリしている来夏、大人になることが永遠にかなわないから超然として穏やかに立つ夏美。「動く」来夏と「止まっている(いた)」夏美、といってもいいかもしれない。
来夏にも、相手が誰であろうと真剣に対応する優しさ、自信を失ったルーム長を救う(この時初めて子供である自分を受け入れ「大人に頼る」姿を見せたことを忘れてはいけない)優しさがあって、夏美にも、命がかかった状況でも浴衣を脱げなかった強い意識、「手をつなぐのだけは、見逃してください」と世界のすべてに宣言する積極性がある。
どちらも来夏、どちらも夏美。そして、幕が下りて気づけばすべてが矢島舞美。
対照的な(だけどどこかでつながっている)個性のそれぞれをデフォルメしたものが来夏であり夏美であり、両立する二つの個性は渾然一体となり、ふたたび矢島舞美という個人に収斂する。
血のつながった二人を一人が演じる、どうしようもない必然。


幼い頃そのままのヤンチャなアクティブさ、「ほとんど怒らない」優しさ。弁当にイタズラされても気づかない鈍感さと、梅さんが半ギレした時やリードを許した感謝祭などで、敏感に空気を察して盛り上げようとする繊細さ。両極端に思えるから、つい「どちらが本当の姿か」と判断に迷いがちだけど、きっとそうじゃない。両極端が同時に存在して中間がない。二面性がある、のではなく、優しい積極性と積極的な優しさが一つの人格にまとめられて、汗をかいてガンガン前に進むけど涙を流す優しさを捨ててはいない。それが(それも)我らが矢島舞美だという気がする。どちらが欠けても僕らの好きな舞美にはならない。
どちらにもいけず中間でウロウロ生きている僕(たち)は憧れる。中間がないことを「無」でなく「感知できないほどの無限」と捉え、そのスケール感に圧倒されつつ。



「すっぱい果物を頬張る」
「勇ましく歩く」
「忘れない」
「ひらめいたら進もう」
「乙女は明日も行く」
『夏DOKI リップスティック』は、ひたすら行動する乙女の歌。
「太陽に近づいて」いくために。太陽は、人間的なタイムスケールにおいては「永遠に輝く」ものとして差し支えないものだから。
太陽にならんとする矢島舞美を太陽として、僕たちは生きる。


「まいみぃ〜がもしもいなかったら・・・」で始まるホレホレ団のテーマでも作ろうと思いましたが、サンバルカンの替え歌には『愛國戰隊大日本』という迷作(いや名作)があるのでやめときます。