霧積温泉金湯館  鼻曲山(はなまがりやま)~1655m~

クリスマスイブ・・・・おじさん一人で温泉旅行です。今年最後のご褒美

温泉に浸かる前にひと運動しようと、ぐんま百名山、信州百名山に選定されている鼻曲山へ行きました。2010年の秋以来、15年ぶりの鼻曲山です。冬に訪れるのは初めてです。

 

【コース】霧積駐車場9:22━鼻曲山登山口━角落山分岐━十六曲峠━鼻曲峠━鼻曲山11:34━鼻曲峠━十六曲峠━角落山分岐━鼻曲山登山口━霧積駐車場13:18

トータル行動時間 3時間53分 


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道中、妙義山が綺麗だったのでパチリ


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霧積駐車場

雪が積もっています。林道も凍結していてスタッドレスタイヤ必須です。


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斜面の湧水も凍結しています。


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鼻曲山登山口


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十六曲峠 角落山への分岐になります。

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大きなブナの大木から浅間隠山が見えます。


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雪がうっすら積もっています。


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鼻曲山が見えてきました。


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サルノコシカケ


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すごい量
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一部の登山道では膝上ラッセル

落ち葉と雪の吹き溜まり


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鼻曲峠

山頂まであと20分 風が強いです


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鼻曲山

鼻曲山(はなまがりやま)は、群馬県高崎市、吾妻郡長野原町および長野県北佐久郡軽井沢町との境界にある山である。信州百名山とぐんま百名山に選ばれている。


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角落山 奥に榛名山


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下山は来た道をピストン

今日は帰らずに 霧積温泉「金湯館」へ宿泊します。



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霧積温泉(きりづみおんせん)は、群馬県安中市松井田町坂本(旧国上野国)にある温泉。かつては「荒治療の草津、仕上げの霧積」と呼ばれていた。昔は犬の湯、入りの湯と呼ばれていたが、霧が多いことから霧積と名前が付けられた。

歴史

伝説では源頼光の四天王碓井貞光まで遡る。発見は1200年代であるという。京を追われた武士の愛犬が発見したとされ、古くは犬の湯、のちに入りの湯と呼ばれるようになる。

江戸時代には碓氷関所の要害に当たるため、往来には厳しい制約があり、1654年(承応三年)の入湯手形(中島文書)によると、入りの湯の湯治に来たのは新堀、松井田、郷原の村民で安中藩以外の者はほとんどいなかった。入湯改めは男は役所手形で許されたが、女の監視は厳しく名主手形に安中藩郡奉行裏半が必要であった。

1831年(天保2年)の文書には、坂本村の湯小屋一軒と土塩村小屋と称する二軒があり、1856年(安政3年)の坂本宿開湯願始末書(上原文書)によると、五料、土塩、横川、上増田四か村が古文書を基にした話し合いの結果「四か村の利用者がいない時は坂本宿で称してよい」など、入りの湯の管理権は坂本宿に委託された。その後湯守権は個人のものとなり、1880年(明治13年)に碓氷温泉金湯社所有となった。1883年(明治16年)には現金湯館旧館が建てられた。

明治時代初期には温泉旅館が季節営業を始め、軽井沢が別荘地として開かれる以前から別荘が建てられるなど、避暑地として知られるようになる。

伊藤博文、勝海舟、尾崎行雄、西郷従道、岡倉天心、西條八十、与謝野鉄幹・与謝野晶子夫妻、幸田露伴・幸田成友兄弟、山口誓子、徳富蘆花、小山内薫、川田順ら多くの政治家や文化人も訪れている。伊藤博文が明治憲法草案を起草した部屋は2020年現在でも本館の一部として残されている。

1888年(明治21年)に軽井沢に初めての別荘を設け、避暑地としての軽井沢の歴史を切り開いたカナダ人宣教師のアレクサンダー・クロフト・ショーも温泉を訪れ、ギヤマン(ガラス)造りの温泉紹介所を開設。英文の広告を発行し、外国人にこの地を紹介している。これによりこの地でも本格的な開発が始まり、温泉地・避暑地として栄えた。かつては湯の沢付近に別荘地が建てられていたが、のちに西方(軽井沢方向)へと移っていった。当時は旅館4軒、別荘が20-30軒存在していたが信越本線開通による磯部温泉や軽井沢の繁栄、下記の霧積川の洪水により衰退した。明治時代には六角湯という共同浴場も存在しており、歌人の与謝野晶子は「六方のまど霧にふさがる」と詠んでいる。

しかし1896年(明治29年)7月、1910年(明治43年)8月に山津波が発生し、4軒あった温泉旅館、50〜60軒あった別荘が流され、温泉街・別荘は壊滅。金湯館のみが被害を免れ、営業を続けた。こうして避暑地としても終焉を迎え、山奥の秘湯という風情の姿になった。1910年の山津波では、近藤廉平の二男、桂太郎の長男、鈴木代議士の息子など、死者行方不明者合わせて41人が亡くなっている。

かつて源泉は自然湧出だったが1959年(昭和34年)にボーリングを行っている。旧館の前にある水車は自家発電に使用されている。1971年(昭和46年)、姉妹館「きりづみ館」誕生。2012年(平成24年)4月、きりづみ館が閉館し、以後は金湯館のみの営業となっている。


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案内されたのは本館の和室12畳

ファンヒータや炬燵、布団の電気あんままで温められてありました。

13時30分と早めのチェックインにもかかわらず温かいおもてなしに感謝です。

 

伝説

昔、傷を負った猟犬が水たまりに傷口を付けていた。猟師が不思議に思って水たまりを調べたところ温泉であることが分かった。そのため犬が発見した温泉ということで「犬の湯」となり、それがいつしか「入りの湯」となった。

かつて湯治を目的に母子が訪れると不思議なことに温泉の湯が止まってしまった。天狗のお告げによると「十一歳になる子供を人身御供に差し出せばすぐにでもお湯は出る」と告げられた。湯治客の中で11歳の子供と言えばこの子しかいなかった。一夜が明けると、お湯は出るようになったが、11歳の子供は天狗にさらわれたのか姿が見えなくなった。母は「11歳になる児をみかけませんでしたか」「ジュウイチ…、ジュウイチ…」と半狂乱になりながら探しまくった。以後母は鳥となり我が子を探し続け、峰か谿へと飛び交う母の声だけが伝説となって霧積温泉へ残ったという。この11(十一)は別名を慈非心鳥(ジュウイチ、じひしんちょう)と呼ぶようになった。


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磯部せんべいが置いてありました。

入浴後チューハイで乾杯  ひと眠りして夕食を待ちます。


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夕食が運ばれてきました。


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天ぷら盛り合わせ


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鮎の塩焼き
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煮物


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さしみ蒟蒻


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豚汁


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朝食

ガノー DIAMOND II

運動不足解消のため、自転車通勤始めました。

そのために、新しいタイヤとヘルメットを購入。

お店の人が古い型のヘルメットを半値でよいというので購入しました。

片道約15㎞ですが・・・いつまで続けられるか?

 

ヘルメットはとても被り心地もよく、良い買い物ができました。
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ガノー DIAMOND II

JCF公認モデル

サイズ:S(52 - 56cm)、M(56 - 59cm)、L(59 - 62cm)

ベンチレーション:40個

重 量:285g

カラー: レッド、ブラック、ホワイト

価格:20,600円(税抜)

焼肉天国 赤坂


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今日は献血の帰りに久々の焼肉行きました。塩とレモンで食べる豚トロが美味しかった😭

北関東ツーリング 奥久慈男体山~いわき市~鹿島神宮

11月28日 自宅--66km--マクドナルド--80km--ファミリーマート--28km--奥久慈男体山--18km--弥満喜--56km--二ツ島--37km--スーパーホテルふくしまいわき (1日目)トータル 285km

11月29日   スーパーホテルふくしまいわき--55km--ファミリーマート--49km--セブンイレブン--43km--鹿島神宮--4.6km--道の駅いたこ--173km--セブンイレブン--21km--ビジネスホテル伊勢崎平成イン (2日目)トータル 345.6km

二ツ島(ふたつしま)は、茨城県北茨城市の磯原海岸沖合にある無人島(岩礁)。

夏季に多くの海水浴客で賑わいを見せる磯原海岸の沖合に大小2つの島が海中からそびえ立つ姿が特徴であったが、2011年(平成23年)3月11日に発生した東北地方太平洋沖地震とその津波により、小さいほうの島は消失した。大きいほうの島も一部崩落し、島の上部に見られた植生は失われた。地震後、島の崩落の危険性と周辺海岸の地盤沈下のため、近隣の磯原二ツ島海水浴場は翌2012年(平成24年)にかけて2年連続で海開きを断念したが、2013年(平成25年)から再開した。茨城百景に選定されており、北茨城市のランドマーク的な存在となっている。二ツ島対岸の陸前浜街道沿いには二ツ島観光ホテルと磯原シーサイドホテルが立地しており、夜間ライトアップも実施されている

海風が暖かくて気持ち良い

1日目の宿泊先 スーパーホテル福島・いわき

天然温泉つきのビジネスホテル。朝食付きで一泊7000円くらい?

平日の宿泊客は9割がた工事関係者でした。きれいで居心地のよいホテルでした。

新舞子浜

新舞子ビーチ(しんまいこビーチ)は、福島県いわき市平藤間にある海水浴場。夏井海岸の中央部に位置する。「新舞子」の名は、兵庫県神戸市にあった舞子浜に由来し、日本の白砂青松100選に選ばれている。周辺は磐城海岸県立自然公園に指定されている。

いわき市内の海岸はいわき七浜と呼ばれるほど海水浴場が多く存在するが、その中でも最も新しいものの一つで、福島県初の人工ビーチとして1995年(平成7年)にオープンした。新舞子ビーチの本来の砂浜の砂は0.2 - 0.5mmの白色中粒砂(砂岩・頁岩・チャート)であるが、外部から投入されたと思われる花崗岩質の荒い砂も混ざっている。ソテツなどの植物が植栽されている。かつて浜にあったハマナスの自生地はほぼ絶滅した。

無料の駐車場(約600台)やシャワー、更衣室が整備されており、若者から家族連れまで人気がある。オープン期間は7月中旬から8月中旬ほどまでであり、2010年(平成22年)の利用者数は318,568人(うち宿泊客は 66,558人)。また、付近には宿泊施設も整っている。

鹿島神宮

鹿島神宮(かしまじんぐう、鹿嶋神宮)は、茨城県鹿嶋市宮中にある神社。式内社(名神大社)、常陸国一宮。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。

全国にある鹿島神社の総本社。千葉県香取市の香取神宮、茨城県神栖市の息栖神社とともに東国三社の一社。また、宮中の四方拝で遥拝される一社である。

茨城県南東部、北浦と鹿島灘に挟まれた鹿島台地上に鎮座する。古くは『常陸国風土記』に鎮座が確認される東国随一の古社であり、日本神話で大国主の国譲りの際に活躍する武甕槌神(建御雷神、タケミカヅチ)を祭神とすることで知られる。古代には朝廷から蝦夷の平定神として、また藤原氏から氏神として崇敬された。その神威は中世に武家の世に移って以後も続き、歴代の武家政権からは武神として崇敬された。現在も武道では篤く信仰される神社である。

文化財のうちでは、「韴霊剣(ふつのみたまのつるぎ)」と称される長大な直刀が国宝に指定されている。また境内が国の史跡に、本殿・拝殿・楼門など社殿7棟が国の重要文化財に指定されているほか、多くの文化財を現在に伝えている。鹿を神使とすることでも知られる。

鹿島神宮は、下総国一宮の香取神宮(千葉県香取市と古来深い関係にあり、「鹿島・香取」と並び称される一対の存在にある。

鹿島・香取の両神宮とも、古くより朝廷からの崇敬の深い神社である。その神威は、両神宮が軍神として信仰されたことが背景にある。古代の関東東部には、現在の霞ヶ浦(西浦・北浦)・印旛沼・手賀沼を含む一帯に香取海という内海が広がっており、両神宮はその入り口を扼する地勢学的重要地に鎮座する。この香取海はヤマト政権による蝦夷進出の輸送基地として機能したと見られており、両神宮はその拠点とされ、両神宮の分霊は朝廷の威を示す神として東北沿岸部の各地で祀られた(後述)。鹿島神宮の社殿が北を向くことも、蝦夷を意識しての配置といわれる。

朝廷からの重要視を示すものとしては、次に示すような事例が挙げられる。

 
 

鹿園

境内には鹿園があり、神使(神の使い)の30数頭の日本鹿が飼育されている。明治初年ころまでは、奈良の春日大社同様、鹿苑に多くの鹿が「神鹿」として蓄えられていた。

『古事記』によると、天照大神の命をタケミカヅチに伝えたのは天迦久神(あめのかくのかみ)とされる。この「カク」は「鹿児(かこ)」すなわち鹿に由来する神とされることに基づき、神宮では鹿を使いとするという。また、神宮の社名が「香島」から「鹿島」に変化したことについても、神使の鹿に由来するといわれる。春日大社の創建に際しては、神護景雲元年(767年)に白い神鹿の背に分霊を乗せ多くの鹿を引き連れて出発し、1年かけて奈良まで行ったと伝えられており、奈良の鹿も鹿島神宮の発祥とされている。この鹿島立の様子は、春日曼荼羅の「鹿島立神影図」でも知られる。

日本では、古代より小石のことをさざれ石と呼んでいたことが、文献からも確認することができる。8世紀に編纂された日本書紀には「以砂礫(サザレイシもしくはサザレシ)葺檜隈陵上」とあり、同じく8世紀に成立した万葉集でも「佐射礼伊思(サザレイシ)尓古馬乎波佐世弖己許呂伊多美安我毛布伊毛我」や「信濃奈流知具麻能河泊能左射礼思(サザレシ)母伎弥之布美氐婆多麻等比呂波牟」と詠われている。当時の日本には、巨石はさざれ石が成長して大きくなったとする巨石信仰があり、こういった伝承について柳田国男は、近代でも全国に少なくとも35例あるとしている。10世紀編纂の古今和歌集や11世紀編纂の和漢朗詠集の註釈では、唐の故事にその由来を求めていて、唐で9世紀に成立した酉陽雑俎にある網にかかった小石を寺に奉納したところ一か年で40斤にも成長したという記事を紹介している。後に日本国国歌の歌詞として採用され「君が代」と呼ばれるようになる歌「わがきみは千世にやちよにさざれいしのいはほとなりてこけのむすまで」を収録した古今和歌集では、その序文で「さゞれいしのいはほとなるよろこびのみぞあるべき」と記しており、巨石信仰が「君が代」一首に因らないことを明らかにしている。

 

奥宮
「おくのみや」。本宮社殿からさらに参道を進んだ先に、本宮本殿同様に北面して鎮座する境内摂社。『吾妻鏡』では仁治2年(1241年)の火災で「不開御殿奥御殿等は焼かず」という記録があり、この「不開御殿(あかずのごてん)」は本殿、「奥御殿」は奥宮を指すとして鎌倉時代にはすでに奥宮が存在したと見られている。
現在の社殿は、江戸時代初期の慶長10年(1605年)徳川家康により関ヶ原戦勝時の御礼として建てられた本宮の旧本殿である。元和5年(1619年)の造替により現在地に移され奥宮本殿とされた。構造は三間社流造で一間の向拝を付するが、のちの修理の際に現本殿に倣って改造が施されたと見られている。総白木作りの簡素な意匠であるが、彫刻には桃山時代の大胆な気風も見える。境内の社殿では最も古く、国の重要文化財に指定されている

要石

 
 

 

要石(かなめいし)は、境内東方に位置する霊石。古来「御座石(みまいし)」や「山の宮」ともいう。地上では直径30センチメートル・高さ7センチメートルほどで、形状は凹型。

かつて、地震は地中に棲む大鯰(おおなまず)が起こすものと考えられていたため、要石はその大鯰を押さえつける地震からの守り神として信仰された。要石は大鯰の頭と尾を抑える杭であるといい、見た目は小さいが地中部分は大きく決して抜くことはできないと言い伝えられている。『水戸黄門仁徳録』によれば、水戸藩主徳川光圀が7日7晩要石の周りを掘らせたが、穴は翌朝には元に戻ってしまい根元には届かなかったという。過去に神無月に起きた大地震のいくつかは、鹿島神が出雲に出向いて留守のために起きたという伝承もある。

なお、香取神宮には凸型の要石があり、同様の説話が伝えられる。この要石は「鹿島七不思議」の1つに数えられている。

鹿島神宮と地震に関しては、建久9年(1198年)の「伊勢暦」に詠み人知らずとして見える、次の地震歌が知られる。

鹿島神宮の一の鳥居は古くは東西南北に4基があったが、現在は東西南の3基である。西の一の鳥居は北浦湖畔の鹿嶋市大船津にあり、鰐川の中にある。古くから大船津は神宮参拝者の船着場であったため、神宮の門前町もこちらの西方側に広がっている。中世にこれらの町が形成される以前は、大船津の津東西社から舟で御手洗池まで進み、そこで潔斎して参宮したと考えられている。現在の鳥居は平成25年(2013年)6月の再建で、昭和期に堤防整備により水上から陸上に移っていたが、平成26年(2014年)の御船祭に向けて改めて水上に建て替えられたものである。この鳥居は川底からの高さ18.5メートル、幅22.5メートルという大規模なもので水上鳥居としては日本最大級である。御船祭の際にはここから御座船が出発する。

東の一の鳥居は太平洋に面する明石の浜にある。伝承では、武甕槌・経津主両神はこの明石の浜に上陸し、経津主神は沼尾から望まれる香取へ、武甕槌神は沼尾から現在の本宮へと移ったという。

そのほか、南の一の鳥居は古くは神栖市日川にあったが、現在では息栖神社の一の鳥居が代用されている。北の一の鳥居は神戸原にあったものの久しく失われていたが、平成29年(2017年)に戸隠神社(鹿嶋市浜津賀)前に新たに建てられている。

鹿島神宮をぐるっと一回りして帰路につきました。

北浦とMT-03


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2日目の宿泊先 ビジネスホテル伊勢崎平成イン

平日でしたが工事関係者が多く宿泊してました。食事なしのプランでしたが夜は駐車場内にある 「居酒屋 北菜」さんへ行きました。


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あまり期待していませんでしたが、お酒もおつまみもとっても美味しくて良かったです。近くに来たら再訪したいお店です。

丸亀製麺 わがまち釜揚げうどん 群馬県

豚もつ煮つけ汁 ごはん付き


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築地銀だこ ワールドシリーズ優勝おめでとうセール

初めて買って食べたけど・・・普通のたこ焼きのほうが私は好きです。
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G-SHOCK

仕事用の腕時計が壊れたので新しいGSHOCK買いました、

電波ソーラーなので時間もあまり狂わないし、長く使えたら良いですね~