映画『ソーシャルネットワーク』はアイロニーの映画だったのか?

■ソーシャルネットワーク (監督:デビッド・フィンチャー 2010年アメリカ映画)


主人公はハーバード大の学生マーク、オープニングはパブでの彼女との会話シーンだ。マークは喋る喋る、恐ろしいスピードで喋りまくる。頭の回転の早いヤツなんだろう、そして話はポンポンと飛ぶ、会話だけを見ると支離滅裂なヤツに見えるけど、ホントは頭の中で常に複数のタスクが動き回っていて、でもそれを同時に喋ることは出来ないから、こんな喋り方になるんだろう。頭の回転の早いヤツ、頭のいいヤツ、それがマークだ。

しかし相手の彼女はそれに付いて行けない、なぜならそれは会話ではないし、コミニュケーションだと感じられないからだ。おまけにマークの言葉に刺を感じて次第に激高する。しかしマークは彼女を傷つけたり皮肉ったりしたくて言ってるのではなくて、単に情報としてそうだから、現実としてそうだから、そう言っているだけなのだ。だからと言ってそれが正しいことだというわけでもない。マークの思考は高速過ぎてそこに情緒を差し挟む余裕が無い。彼にとって思考の過程に情緒とか人情を差し挟むことは思考を停滞させることでしか無いからだ。そんなマークを見限って、彼女はマークと別れてしまう。頭がべらぼうに良すぎて、人情とかしがらみが理解できないマーク。しかしマークが打算的で酷薄で傲慢な人間かというとそういうわけではない。ただ、彼は若すぎたんだと思う。自分の才能というものに無邪気すぎたのだと思う。

この映画は結局、終始それによって生み出された軋轢を描いている。革新的なウェブ・サイト「フェイスブック」を作り、それを発展させ、世の中に認知させることに奔走するマーク。それにより巨万の富を得る彼だが、彼は別に巨万の富を得たくて「フェイスブック」を作ったわけではないのだろう。彼はこのウェブ・サイトを創造することの面白さに取り憑かれてしまったのだ。頭に湧く膨大なアイディアを現実化させること、創造することの喜びは人間にとって無二なものだ。またそれが絶大な評価を得ることも人の認知欲を限りなく刺激する。彼にとって最も性急に処理するべきことはこの創造すること、認知されることであり、そして彼はそれを可能に出来る最大級の知能と才能を持っていた。

しかし世間や人間には、彼の圧倒的な知性には邪魔すぎるしがらみが多すぎた。けれど世間や人間は、ある意味こんなしがらみによって成り立っているものだ。しがらみがあることが正しいとか間違っているとか、それはこの映画では描かれない。ただそれにより結果的にこうなってしまった、ということしか描かれない。この映画は教訓や道徳や善悪を描くものではない。

マークは人と人とのコミュニケーションを生み出すツールを創造しながら、自分自身は恋もままならず友人さえ失う。それをひとつのアイロニーとして描くことがこの映画の目的だったということもできるが、それは映画という物語作品のオチとして用意された物でしかなく、実際にマークのような男なら、この後に様々な出会いや人間関係が出来るはずだろう。映画の冒頭では有名大学の外れ者のナードでしかなかったガキンチョのマークだが、成功したビジネスの生み出す膨大な人とのネットワークから新たな人間関係を生み出すことなどいくらでも可能なことだ。だからオレ自身は映画の用意したアイロニーは無用なものとしか思えなかった。さらに言ってしまえば、起業もビジネスも億万長者もITも有名大学のフラタニティもソーシャル・ネットワーク・サービスにも全く興味のない自分にとっては、実のところこの映画は、「よく出来ているけれどどうでもいい映画」でしかなかった。

■ソーシャルネットワーク 予告編


THE SOCIAL NETWORK

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