「クィア・リーディング」とは何か
Official髭男dismは、2018年の「ノーダウト」でのヒットから、にわかに注目されているバンドである。「ノーダウト」はブルーノ・マーズのJPOP的受容といった感触の佳作であったが、セカンドの「Pretender」では、ボーカル藤原聡の圧倒的な歌唱力に多くのリスナーが驚かされることになった。
同曲はビルボード・ジャパンのストリーミングチャートで、本稿執筆時点において15週連続1位をキープしている。しかもKing Gnu、あいみょんを抑えてトップ3を髭男の曲が独占する人気ぶりであり、「Pretender」がいまもっとも広く聴かれている音楽であることは疑いない。
本稿では、この「Pretender」を「クィア・リーディング」という方法によって読み解いてみたい。クィア・リーディングとは、ごく単純化していえば、「女性は男性を、男性は女性を」という異性愛の枠内に収まらない性愛のありかたに注目する作品読解の方法である。
たとえば夏目漱石の『こころ』では「先生」と「K」と「お嬢さん」の三角関係が描かれるが、これを男性である「先生」と「K」が女性である「お嬢さん」を取り合う物語と読むのではなく、「先生」と「K」のあいだに、さらには一連の出来事を語る「先生」と、彼から話を聞く男性の「私」のあいだに同性愛関係を読みとる──そのような可能性をクィア・リーディングは引きだす。
だからといって、異性愛の三角関係として『こころ』を読むことが「誤り」だと主張するわけではない。基本的にクィア・リーディングは、異性愛だけを前提にした読解では抑圧されてしまう要素に光をあてられるようなときに真価を発揮する方法であると言えるだろう。
じっさい、上述の可能性を意識してあらためて『こころ』を読むと、そこに男性同性愛の可能性が散りばめられていることに、そしてそのことに気付かずに読んでいた自分に、誰もが驚かされるはずだ。『こころ』が異性愛の物語か同性愛の物語かは、その両方を知ったあとで決めればいいし、さらに言えば、どちらか決める必要もない。
とはいえクィア・リーディングは、たんに意外性を強調するための方法ではない。異性愛という強力なコードに支配されたわたしたちの認識は、たとえ「自分は同性愛を認めている」と信じている場合でも、ときにクィアな生き方を、誤認したり、否認したり、つまりは端的に、差別してしまっていることがある。
クィア・リーディングは、そうした認識に反省を迫るような、クリティカルな力を持ったツールでもある。そして髭男の「Pretender」は、クィア・