元隊員の間でさえ、特攻への評価に温度差がある
太平洋戦争末期の、日本陸海軍の飛行機、舟艇、戦車などによる体当たり攻撃、いわゆる「特攻」は、「あの戦争」の一つの象徴として、いまなお論考が重ねられ、関連書籍が出版され続けている。
かくいう私も、「特攻生みの親」とされる大西瀧治郎海軍中将の親族、副官、特攻を命じた側の参謀、命じられた搭乗員、見送った整備員、そして家族を喪った遺族……数百名の関係者に直接取材を重ね、『特攻の真意――大西瀧治郎はなぜ「特攻」を命じたのか』を上梓(2014年。単行本版は2011年)した。
10数年かけて当事者を訪ね歩き、資料を漁り、本を著す作業のなかで気になったのは、任務の遂行すなわち「死」を意味する戦法の異常性ゆえか、特攻関連の情報がいくつかの傾向に偏っていて、中正な立場から書かれたものが皆無に近いことだった。
――特攻がいかに愚策だったかを強調し、「上層部」を罵倒するために史料や数字を恣意的に引用しているもの。それとは逆に、命じる側の自己正当化のため、あるいは「右寄り」の論調を補強するための美化。さらに、「特攻の母」鳥濱トメさんのエピソードのように、情緒に訴え、「泣かせる」読み物。そして、「国のためではなく愛する者のため」と、戦後世代に耳あたりのいい価値観で、隊員たちの精神性を一括りにする物語。
特攻当事者が編纂した戦没学徒の遺稿集も、たとえば『きけ わだつみのこえ』(1949年)と『雲ながるる果てに』(1952年)では、それぞれ「左」と「右」に分けられるほどにニュアンスが違う。当の特攻隊員の間でさえ、「特攻」への評価や意識にはかなりの温度差があったのだ。
二度出撃して、敵艦に遭わず生還したある元特攻隊員は、私のインタビューに、
「特攻が嫌だと思ったことは一度もない。俺たちがやらないで誰が敵をやっつけるんだ。私の仲間には渋々征ったようなやつはいない。それだけは、覚えておいてくださいよ」
と言い、また、四度の出撃から、これも敵艦と遭わずに還ってきた別の元特攻隊員は、
「死ぬのがわかってて自分から行きたいと思うやつはいないでしょう。みんな志願なんかしたくなかった。私も志願しなかったけど、否応なしに行かされたんです」
と言った。また、直掩機(特攻機の護衛、戦果確認機)として、爆弾を積んだ特攻機(爆装機)の突入を見届けた元特攻隊員のなかには、
「離陸してから突入するまでずっと、爆装機の搭乗員の顔は涙でくしゃくしゃで、かわいそうでした……」
と回想する人もいる。その直掩機も、もし途中で敵戦闘機に遭遇したら、爆装機の盾となって、命に代えても突入の掩護を全うすることを求められていたのだ。
人それぞれ、置かれた状況も違えば、感じ方、捉え方も全然違う。「生存本能」と「使命感」のはざま、言葉を替えれば「個体保存の本能」と「種の保存の本能」がせめぎ合う、人の生死の極限状態であり、当事者の数だけ異なった捉え方があるのは当然である。一人の心の内にも、そのとき、そのときでさまざまな感情が去来することを思えば、元隊員たちのどの言葉にもウソはないと思うし、逆にそれが全てではないとも思う。
現在の視点で歴史上の事実を分析することは大切だが、それには常に、当時の価値観を俎上に乗せこれと比較するのでなければ、事実が真実から遊離してしまうし、批判も的外れなものになってしまう。紙を読み、頭で考えるだけでなく、当事者への直接取材が欠かせないゆえんである。
特攻作戦にいたるまでの道のりについてはここでは省き、私の取材範囲は主に海軍なので、海軍を例にとって、特攻についての的外れな批判、ないしは間違った通説をいくつか挙げてみる。――「海軍を例にとって」と、わざわざ断りを入れるのは、陸軍の特攻隊と海軍の特攻隊は、手段は同じでも成り立ちが違い、それを一緒にしてしまうと間違いが生じるからだ。