みんな、薄々感づいていないか?
「ウチも電通さんのことを言えないのですけどね・・・」
昨年の秋、電通過労自死事件が明るみに出てから「過労死・過労自死」「長時間労働」「働き方改革」に関連してメディアからのコメント依頼、寄稿依頼が増えた。しかし、電通などを叩く気満々の記者から、こんな前口上があると、その偽善ぶりを感じてしまうのである。
舌鋒鋭く電通叩きの記事を書いている、この人も同罪ではないかと思ってしまう。いや、過労社会の被害者か……。
時代は「働き方改革」の大合唱だ。2016年8月3日に発足した第3次安倍第2次改造内閣は自らを「未来チャレンジ内閣」とし、「未来への責任」を果たすことを使命とした。
その中でも「最大のチャレンジ」と位置づけられたのは「働き方改革」だ。有識者会議などで意見をすいあげた上で、3月には残業時間に関する上限規制が設ける方向が固まった。
政策だけでなく、企業における「働き方改革」も話題となる。在宅勤務の推進(リクルートHD、富士通など多数)、残業しない人に対する手当(SCSK、はるやま商事など)、早めの退社時間を設定する(伊藤忠商事など)、退社後つぎの出社までにインターバルを設定する(KDDI、NEC、ユニリーバなど)など、各社の取り組みもメディアで話題となる。
余談だが、全国紙でも数紙において「夜討ち朝駆け」の規制が始まっている。これでは新聞はますます文春砲、いや、講談社のサイトだから保身のために配慮すると週刊誌に対して、ますますスクープにおいて負け続けるのではないかと思ってしまう。
実際、規制が始まった全国紙の記者は労組の幹部を含めて戸惑いを見せている。「労組としては、より良い労働環境を求めていかなくてはならないのだが、ジャーナリズムはこれでいいのか?」と。
サンプル数は少ないものの、電通叩きをするメディア自体から、このような戸惑いの声が聞こえる。いや、これに限らず、「働き方改革」に対する疑問の声を聞く。一例をあげてみよう。
「働き方改革と言いつつ、休み方の話に終始していないか」
「労働者視点が不在の“働かせ方”の話になっていないか」
「成功事例とされている企業の取り組みには、実は副作用もあるのではないか」
「死人が出るようなブラック企業は問題があるが、バリバリと働きたいという意欲を否定してはいけないのではないか?」
さらには、
「とはいえ、仕事の絶対量も多く、顧客からの急なオーダーもある。残業は減らせないのではないか」
「大手が残業を減らそうとすると、そのしわ寄せは取引先の中堅・中小企業に行くのではないか」
という疑問もあることだろう。
「働き方改革」の議論の流れにも疑問が残る。正社員、大手企業を中心とした議論になっていないか。
当初は出産・育児や介護との両立、趣味の時間を確保するためなど、ワーク・ライフ・バランスという目的が掲げられていたように思う。
しかし、電通自死事件もあり、いつの間にか「生きるか死ぬか」という意味でのライフにすり替えられてしまった。もちろん、職場で人が死ぬ社会が正常であるはずがなく、その是正が大切であることは間違いない。
もっとも、ワーク・ライフ・バランスという言葉すら疑いたい。出産・育児や介護などは家族との時間であり、人生を豊かにするという考え方は否定しないが、これも「家事労働」と捉えるならば「ワーク」だ。この言葉自体、人を踊らせるものであることにも気をつけなくてはならない。
「働き方改革」なるものが国をあげた議論になることは結構なことのように思える。ただ、その内実は極めて欺瞞に満ちたものになっていないだろうか。